森崎和江とニーナ・シモンの「誰のせいでもなく私のせい」が、私には共鳴している気がするので、何冊か読んでみるわ。

しかしこないだまでヒュペーリオンは超私の本や、なんて言っていたのに、この振れは! ちゃんと自分の食べ物にしていかないと、気が狂うまでいかんでも、しんどい。こういう振れは頭のいい人にだけ有りだとおもいます。

5月5日の日記

2012年5月5日
私は銃声が聞こえて首をひっこめるときのような格好で、ただもうひざまずく。ひざまずいていれば投げ出されにくいから、ひざまずく。その間わたしの内部に何が起きているというのか。どういう問いがたてられるのか。なにも起きていないのだ。まさにそうだ。なにも起きない。もうなにもないのだ。
この不自然な状態でじっと我慢すれば、やがて朝が来る。人が義務と呼んでいるものを積み込んだ朝が来る。苦難それ自体は語らないほうがよい。肝心なのは苦難の結果なのだ。その結果とはこの場合、わたしはまだ生きているということなのだ。それ以上のことはない。「どうですか」「ありがとう。お宅はどうです」
夜わたしがひざまずいていたことから来るあらゆる印象が、霧の中に入って解消していく。
(ハンス・エーリヒ・ノサック「クロンツ」)

4月23日の日記

2012年4月23日

 久しぶりに外出せず、15時間は寝た。すっきりした。

「その折々の負い目がなんであれ、心身の一切合財を世界の音とじゅずつなぎに糸をとおしていく仕事を、わが血縁は忘却する…。」(森崎和江「第三の性」)



 水曜日、友人と新宿御苑に行った。八重桜シーズンらしい。一葉、大島桜、鬱金(うこん)が満開。鬱金のクリーム色の花弁、素敵。緑色っぽい花弁の御衣黄(ぎょいこう)はまだだった(たぶんこの土日が見ごろだった)。染井吉野とちがって、開花とともに葉も混じる。
 友人が、八重桜の寄り集まるように咲く花に、頬を寄せてやわらかさを確かめていた。
 あまり天気がよくなかったけれど、池のそばのカエデ(たぶん)の若い葉が、曇り空のしたでひときわやらわかい緑色をしていたのが、おもわぬうれしい邂逅でした。

 御苑のブログを読むと開花状況とか見ごろのものがわかります。年間パスを買おうかしらん。10回行けば元が取れるらしい。



 その前の日曜日は日和田山へ登山、というかハイク。多稲子(たねこ)さんが初参加。ほかは志ろ田ちゃん、魔亜子ちゃん、荏根さん、貝垣くん。

 整然と杉の並ぶ林のあいだの道を歩く。みんな相変わらずのマイペースなので、離れたり近くなったり、むかし顕微鏡で見た、水の中の微生物のよう。
 あわい色のミツバツツジがうれしい。生真面目に整列している杉の林の、くろぐろした緑。萌え出でた草の若い緑。滝! 水の流れるそばを歩くよろこびときたら。
 木々のつくる影を踏んで歩く。明暗の織物を写真にとる。お菓子をみんなで分け合う。キリストの5000人のパン、とおもう。頂上でご飯のあとは、荏根さんがコーヒーをいれてくれる。

 山を下りた後は、河原で石遊びして、菜の花畑をみてまわる。近くの空き地でなぜかぽつんと馬がつながれているのを、みんなで恐る恐る寄ってさわる、多稲子さんが真っ先に近寄っていたのが印象的だった。
 なんだか盛りだくさんな、行楽なハイクであった。いろんなものに心が騒いで、あんまり忙しかったらしく、みんなで夕ご飯を食べていたら力尽きて先に帰ってしまった。あほだ。



ニッキーさまの新譜を買いに行かねばなりません。

4月9日の日記

2012年4月10日
4週間毎に訪れるおなじみの塞ぎの虫に吸血されて、デーモンと化した。
こんなときは大事なものの姿もよく描けない。

電車の窓から花の咲いているのが散見せられて、どきどきする。

なんだか気の重い用事が増えた。

4月8日の日記

2012年4月8日
ユベール・ロベール展に行きましたが、いまいち没入できなかった。
上野公園は、桜がシェルタリングスカイしてた。公園そばの神社で、梅なんだかナンなんだかの花が咲いていたのが、好ましかった。白に赤のマーブルで。そのあと適当に歩いて、谷中霊園のそばを通ると、墓場のそばで花見しているひとが多くてびっくり、一休さんもびっくりのメメントモリですな。

ソメイヨシノって、そんなに好きではないぜ、と言いたくなる。こんなこと言うと一気に面倒くさい人になりそうだな。みんな好きなものをわざわざ好きになることはないよな…っていう、酸っぱいブドウのいびつなバージョンが、私の根底にある。

桜の下で酒盛りしたくなる気持ちは、わかるような気がする。すごく空しいことをしたくなる。

4月8日の日記

2012年4月8日
4月8日の日記
こないだ行った新宿御苑の、ハクモクレン。

お花ってグロい。
生命って暴力と歓喜のハイブリッドやわ。

携帯で撮ったのだけど、これだけはデジカメの画像よりきれいだった。なんだかね。

桜なんか

2012年4月5日

新宿御苑へ行った。
陽光、寒緋桜、椿、木蓮、木瓜[ぼけ]の花が気に入った。ぼてっとした色がツボ。年をとったせいか、もともと阿呆なのか。桜だって濃いピンクが好き、椿も、そして白いならば、白粉の付けすぎみたいな白が好き。

木瓜の花、恋にいかれてる人みたいな、マーブルがかった色が、最高。木瓜だけで20枚くらい写真を撮った。椿はほんとに首切りみたいに花が落ちていた。話にのみ聞いていたことを、目にて確認する。日陰でみる椿は妙齢の女性のようであった。日向ならば、ちょっとちがう印象になるかも知れない。

繊細な色の桜はそんなに好きじゃないな、と思った。写真にうまく撮れないせいもあるかも知らない。でも繊細な色から、文学作品が生まれるのですかね。

行くのならばおそらく今週末がいちばんいいのではないかなー。

4月4日の日記

2012年4月4日


そば粉と全粒粉とちょっぴりの薄力粉で、超私好みのパンケーキができるとわかった。あまりに私好みなので、たぶんほかの人には人気ないとおもうが。

朝は小麦粉じゃないと力がでないわー。



森鴎外「阿部一族」読んだ。すごい話だねコレ。
春の嵐、なのだろうけれど、このうらぶれた、つめたい住宅地では、風がひーす・くりふ!ひーす・くりふ!とわめきながら通り過ぎ、窓を「あたし!あたし!きゃしーよ!」って叩いてる。携帯電話に口寄せてがなり立てているひとみたいに。(いまやハンズフリーが主流ですか?)

嵐の前の、空の、不穏を煮詰めたような色には、わくわくした。

3月29日の日記

2012年3月29日

 しんどい人のそばにいる人がいちばんしんどいであろうときもあるのに、〈ふつう〉に相手を気遣ったり扱ったり、関係性を素面の状態に保つことができるのはすごいわ。体力・精神力いるよね。→「フィフティ・フィフティ」のセス・ローゲン[主人公のがん患者を支える親友の役]。ほとんど才能みたいに鮮やかな優しさには、嫉妬を覚えてしまうが。
 私は「自分がいちばんしんどいのよ。泣」と気がつけば思っているので、そういうことができないかも。
 身近な人がそのようなしんどい目にあったら、関係性に酔っても醒めても、粛々とやるしかないのだろうけれど。



 どんなに仲がいい人でもどんなに気になる人でも、その人の姿かたちの詳細を問われると、思い出せないときがあるのですけど、(私だけ?)、きょうはある人の姿かたちがくっきりと思い出せて、ちょっといい気分だった。今日は化粧のノリがいいわ、というのと似た気分で、もう思い込みでしかない出来事なのですけど。そして結局また忘れてしまって曖昧になるのですけど。この行き来こそが、生なのだ(言い訳)。

冬はこれを寝っころがりながら、よく聴いてました。
ピアソラ ― ブエノスアイレスの冬
http://www.youtube.com/watch?v=4y3vvCxKBwI

 この映画、友達に感想を聞かれて「セス・ローゲンがおいしいポジション過ぎ!」って訳のわからないことを言ってしまい、あとで後悔した。
 たぶん、たいていのひとは観ていて気持ちよくなれるのではないかな。結構笑わされたし。いい映画、なのではないか。私は保留しときたいけど。

 主人公の恋人がどうみてもひどい女のようにしか描かれていないのが、ちょっとどうなのかなと思った。それもあって、主人公の親友、女のケツばかり追いかけている「女好き」のセス・ローゲンが一番好きなのは、というのは掛け値なしに愛情を注ぐのは、どうみても主人公じゃん!と、臆面のないホモ・ソーシャル感が、そんなに好きになれなかった。
 がんで闘病した脚本家の実話が元になっていて、実際にその脚本家の友人であるセス・ローゲンが、この話を脚本にするように勧めたらしい。で、たぶんセス・ローゲンは、この作品で描かれているようなお下劣さを抜いた、いい人なんだろうな、と思った。

 「いい映画」って、たぶんそんなに好きじゃない。というか「いい映画」を褒めるの苦手。自分のひねくれ具合にたまにびっくりしてしまうわ。

 小説や映画が好きな人、虚構や想像力の海で遊ぶことが好きな人は、って、私がワンノヴゼム気味なのだけれど、ときたまそれらで遊ぶことが自分の人生や生活より優先されてしまったりする。近頃そういうのはどうなんだろうと思ってしまう。

 映画や小説のような、ドラマティックな人生や美しい生活を送りなさい、と言いたいのではない。虚構に溺れないで陸地に足をつけなさい、と言いたいのでもなくて。

 帰ってきて、と言いたい。そこに行くのはとめないけど、帰ってきて。できれば生命の泉の水を飲んで、そして汲んできて、バスチアンのようにさ。


 その水を飲むって、心を豊かにするってことだとおもうけれど、それが必ずしもそのひとを強くするわけではないし、人生や生活が容易くなるわけでもないのですけど。

 何が言いたいか、わかんなくなってきたけど。
 あー、私は貧乏性なので、本や映画に触れたら、何かしら身になるものを得たいと思いすぎるのであろう。勇気とか、寛容さとか。
 そしてそうではない人とは、話をしていてもどこかで食い違うのだろうな。

Kくんのママンは森茉莉が好きなのだそうで、「あんたのお母さんはほんとにシャレオツ、お疲れ様なひとね」と私が揶揄すると、Kくんは「俺、森茉莉は、なんか気持ち悪くて嫌いなんよ」と言った。
Kくんは女の子と仲良くなるのが得意な、女子力のあるひとだけれど、そういえばKくんが仲良い女の子は、私やもうひとりを除いて、みんなお部屋がきれいそうな感じする。少なくとも森茉莉のように、ごみ屋敷みたいな賃貸で、高級な紅茶を高級な紅茶茶碗に注ぐけれど、その茶碗に年輪のように、茶色いしみがついている、なんて真似は、すまい。ただKくんは、仲の良い女の子から出されたならば、そんなびみょうな紅茶もおいしくいただくことができそうな気はする。いやー、どうなんかな。Kくんはたぶん、自ら買って出て、ティーカップの茶色いしみを落とすんだろう、激落ち君とか、重曹とか使って、ママン譲りの知恵で。そして律儀に紅茶を褒めるのだ、その子の選んだ茶葉を、紅茶を淹れる腕前を褒めるのであろう。

ところで引越しなさると聴きましたが本当? 餃子パーティーを、したいですな。

終わりの後

2012年3月19日
きみは神々の子だ。死のさだめを負ったきみのカストールに、きみの不死をわけてくれる。

…と、ほとんど恋のように友人アラバンダを敬慕して、ヒューぺリオンは言うのである。
 私も言ってみたいわそのように。

 だいたい仲良くしようとおもう初めは、ほとんど恋のようなものであって、あなたとの馴れ初めもそう。(ぽっ)。
 ただ、そもそも私たち、少年同士でも男同士でもない、だから神々の子でない。洞窟で秘儀を行う、古代人じゃない。愛の神話のような、私の片割れが、あなた! というのでもない。なんかそういうのしっくり来ない。そういうのの裏返しも、然り。

 青春が終わった、気がつくと一緒に過ごしてきた実績があるのね。青春は終わった! 青春は終わってないわ、とか、言いたくもない。私たちは老いていく。

 不死でなく、確実なものでなく、勇気を分けていただいてきた、あなたから。

 お誕生日おめでとうございました。

買いっぱなしの「ヒュペーリオン」を読む。
春が待ち遠しいなと思っていると、ヘルダーリンがシンクロしすぎていけない。
もうすでに頭の中に、この世ならぬ春が来てるみたいな。
というか、なんてゆうか、もう生きてしまったような気さえしてくる。

・「そのようにぼくは夢想をかさねた。そして忍耐づよく、すこしずつすべてのものに別れをつげた。」
←これってローベルト・ヴァルザーですね、とぐるぐる花丸。

・ディオティーマへの思慕、わかるーと思って読んでたけど、あれですね、私女だから、むしろディオティーマを慕うんじゃなくて、ディオティーマにならないといけないのですよね。でも、逆立ちしてもディオティーマにならない。どうしたって慕うほう。生きにくいな。

3月13日の日記

2012年3月13日 音楽

友人が、自分の60パーセントは狂気でできている! と言っていた。

Cocco - がじゅまるの樹
http://www.youtube.com/watch?v=UsW-pUVFHmk

「誰か私をとめてよ、押さえつけてあの木にしばるの」

3月11日の日記

2012年3月11日
黙祷して行進して囲んできました。

今日はこれだな、と思ったのだけれど、身のうちに鳴るまでにはよく覚えてなかったので、歌えるまで練習します。

This land is your land
http://www.youtube.com/watch?v=G60PfjeTh9Y

空っぽの箱でも

2012年3月11日
今日は寝て起きたら、国会議事堂を囲んできます。

国会囲んでくるから、と友人に言ったら、日曜でも議員はいるのかと訊かれた。
はて、日曜はお休みだったりするのかな、と思いつつ、「誰もいなくてもさ、示威行動だからこれは!」と言ったら笑われた。私も笑ってしまった。

とりあえず囲んできます。寝坊しなければよいのだが。

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