東京大行進に参加した。新宿近辺を歩いたのだけれど、大久保を通れてよかったです。大久保にいた人が店から出てきて列をみていたり、手を振ったりしてくれた。わたくしは自分が差別をしないひとだとはおもえないので、これをわたくしの正しさのために歩くことはできない、けれど、「あなたたちにひどいことを言っている人たちは間違っていると、わたくしは知っています」と表明することができたのはよかった。新宿にいたひとたちはわりとポカーンとした反応でしたが。カウンターで嫌がらせをするひともなく、無事に終わってよかったけれど、ただ、ミニスカートのパンクっぽい?ファッションの女の子が、「とりあえず連帯しようは差別の温床」「内部批判、自己批判しない反差別は、ただの消費」と掲げたプラカードを行進する私たちに向かって掲げていたのが気になった。たった独りで。(文言は、うろ覚えだったのを、ネットで検索して確かめたものです。その女の子のまわりには、その女の子にたいするカウンターが起きないようにという配慮なのか、警官がぶあつく配備されていた)。わたくしたちが偽善であると咎めたかったのだろうか。
 大行進にたいする、星野智幸のぼんやりした賛同文とかには?ってなったけれど、車道を歩いてみなければ頭が回らない、心が動かないことも、あるのねん。

 そういえば最近、偽善っていうことばって、わたくしの中学高校時代の世間における流行語だったのか、それともわたくしの中学高校時代の心のなかの流行語だったのか、考えこんだ、そしてどっちか結局わからないままである。
これぞという一枚か、これぞというアーティストをあげよ、と言われたら、いまはこのアルバムもニュートラル・ミルク・ホテルも挙げないであろう。5枚か5アーティストでも挙げない。20くらいだったら、挙げるとおもう。けれどもときどき、このアルバムだけで私にとっての音楽というものは十分なのではないか、と思うときがあるし、実際1年くらいそんな時期があった。このアルバムはそういうふうにおもわれやすいアルバムなのかも知れず、それが紹介の際に〈カルト的な人気を誇る〉とだいたいくっついてくる所以であろうし、ほそぼそとしかし息長く語り継がれる所以なのかも知れない。
知ったときには傑作だとおもったので、それからいろんなひとにNMHを知っていますか? と聴いたものの、どんな音楽好きに聴いても知らないし、それどころか、趣味のあうだろう人に音楽を聴かせてもはかばかしい反応は得られない。これは90年代の米国の最重要音楽のひとつらしいですよと言って聴かせても、「ごめんその重要性、全然ピンとこない」と言われてしまう。著名な、あるいは手堅い日本の音楽評論家がなにか言ってやしないかと、ネットで探してみるけれど、ない。日本にはこのアルバムに対するツボがあまりないらしい。フロントマンのジェフ・マンガムがもともと関わっていたエレファント6というレーベルの他のバンドは、ちっちゃいブームがあったようだが、NHMについてはまったくといっていいほどない。
では、と、ジェフ・マンガムやNMH周辺の、エレファント6関連のバンドを聴いてみるけれど、まったくつまらないのであった。たとえばロバート・ワイアットからソフトマシーンへ、それからケヴィン・エアーズへ、デイヴィット・アレンもゴングもなんか面白そう、と人に教えられたり自分で探したりして音楽がひろがっていったりするが、このアルバムに関してはそれが通用しない。
実はジェフ・マンガムもNMHも、つまらないアーティストとバンドではないのか。このアルバムだけ奇跡の傑作で、ある意味一発屋とも言えるのではないか。このアルバムののちバンドは解散し、マンガムも00年代にはほそぼそとしか活動をしていない。商業的に大成功をしてしまって、そのプレッシャーもあって若死にしてしまったり、バンドが解散してしまったり、という例があるけれど、このアルバムは高い評価を得たにしろ、さほど商業的な成功はしていないらしい。このアルバムが奇跡で完璧すぎて、解散してしまったのではないか。

で、もはや賛否両論あるピッチフォークでは10点満点で、1996-2011のトップアルバムというアンケートでは堂々4位なんだに。(他のランク作品をみると?ってなったりしますけど)。で、目下の悩みは、再結成してホステスクラブに来日するのを、見に行こうかどうしようかということです、はい。つまらない話をしてしまった。
私はサタイアの精神が、体力が足りないとおもいました。ガリバーさまオーウェルさま、力を貸してください。サタイアは自分の喉元に刃を向けるくらいの気力がないと価値がない。ついでに右も左も、両翼について考えが足りないわ。
ラジオでオリンピックについての都知事の言を聴く、総動員ということはこういうことかしらん。ナチュラルに戦時体制。

なんにせよ、「俺らにうまみがあれば君らの生活もなんとのう楽になるよー」という考えは好きではない。

Electric Lady

2013年9月11日 音楽
 ジャネール・モネはなんとなく魔除けになりそうでいい。youtubeにでていた広告なんか、とくに力がありそうで。
 PVで踊る姿がとても好きなので応援はしているけれど、新譜を買うかはわからない。前のアルバムは買って、アメリカのSFのような世界観が興味深く、音の分厚さがすごいとおもったけれど、そのために逆にアルバムを通して聴くのがつらい、というか何を聴いたのか、聴いたあとにあまり覚えていられない。自分があんまりSFに向いてないせいがあるけれど。
 でも応援しております。
東京五輪が決まったそうで、みんな死ねばいいのに、とおもったけれど、それではあまり建設的ではないので、この先のことを、考える、考える。目玉は開会式である・・・といったところで、開会式にふさわしい、いい感じに空っぽな映画監督が、おもいあたらない。宮崎駿とかだったら海外のひとは喜ぶんじゃないかな。戦闘機をとばして賛否両論を呼ぶのね。でも引退してしまった・・・。

日本の代表的な作家をフューチャリングするなら、太宰が引用されて、「生まれてきて、すいません!」って言えば、アジア諸国にもなんとなく顔向けができるとおもう。なにげに「走れメロス」も取り入れて。で、田崎つくるが虹色のなにかを従えて(ロシアの同性愛嫌悪と国内での右傾化へのあてつけに)、「色彩ダー!」って言うの。で、派手な捕鯨を模したショーをして、ブーイングを浴びながら日本の男らしさを全面に押し出すのね、「これが文化だ!」って言って。どうしてもシャーマニックな雰囲気を出したいなら、ナデシコジャパンに大本教やってもらうんだ。天皇にももちろんおいでていただいて、エリザベス女王にひけをとらないパフォーマンスを・・・エノラゲイから降下してきて「ごめん、人間だった!」て言えばいいかな。よくわかんない。

Tim Buckleyって、なんていうジャンルなんだ。括りがわかりません。
初期は穏やかな感じだけれどだんだんプログレのように暴走していって裏声でさけんだりしておる。暴走というのもなにかちがう、へんな飛翔があるのねん。

息子のほうはあまり真面目に聴いていない。

このごろは

2013年9月3日
散歩をして来たところ
このごろは他の人とあまり喋らない
このごろ
このごろはいろいろと考え込んでしまうの
あなたのためにしてあげたかったことについて
いつもそうしてあげられたのにってね

ぶらつくのはやめにしよう
もう無茶もしない
このごろ
このごろは考えるようになったわ
この変化はどうしたことだろう
常道を理解することがあるのかしら

かつて私には愛する人がいた
このごろは新たな恋をする危険を冒したくないの
このごろ
歌にしたような人生を送ることを
怖がっているように思えるのなら
それはまさに私がこれまでずっと負けてきたせいよね

もう夢を見るのはやめよう
野心も抱かないこのごろ
このごろ 
隅石に座って時間を四分音で十まで数えている
友よ、私の過ちを大目に見てね
決して忘れたわけじゃないから


遊びの約束をしていたのだけど体調不良やなんやらでけっきょく行けなかった。その夜ようつべで別の友だちとふたりでNicoのThese Daysを聴きながらしんみりして歌詞を調べると、最後のラインがまるで約束をすっぽかした私たちのようではないかと笑ってしまった、否反省したのであった。虫がよすぎるけれど太字部分を甲斐餓鬼くんに捧げます。いや、それにしてもよい歌詞ですね。

8月27日の日記

2013年8月27日

 藤圭子に似ているね! と同僚の年長女性に言われた。若い頃に似ていると言う。当然似ていないっす。


 なんだかこれまでにないくらい夏バテしております。どんなに水分をとってもご飯を食べても息切れします。いやん、TOSHI!


 新潮文庫の限定カバーが、きつい。銀河鉄道の夜がなしドーナツかや。ちゅうか新潮の場合はとくに、新調したカバーってそんな好きじゃないのよね。
これを読んでいて賢治を読み直したくなったけれど、ちくま文庫の全集のどれを持っていてどれを持っていないのかいまいち把握していない。本をあらかた実家に送ってしまったので。
若い頃は異稿とか改訂とかがいっぱいあるのが正直わずわらしかったのだけれど、何回か読んだり、半分くらいは作品に目を通したりしたからだろうか、興味ぶかく読めるようになりました。
だいたい、翻訳小説の注釈とかもうざったいのであまり真面目に読まないんだに。

どうでもいい感慨ですが、年を取って友人とだいぶ趣味がちがってきました。若い頃はおなじ作品をあがめて読んでいたような気がする、というまえに周りが崇める小説をすなおに読んでいた気がする、というのは、しばらくは男性が主体のグループに属していたからだとおもいます。そのとき学んだこともいろいろあるけれど、やはり読書やら文学体験やらはきほん孤独なものというか、どうしてもそこから外れた自分の嗜好があった気がする。女性のほうがアカデミックな流れから比較的自由に本を読める気もします。女性が本を選ぶときは、男性よりはきほんひとりのような気もするので。そのグループはしぜんに学問的なかたちを解体して、それが理由ではないけれど私もお付き合いしなくなった。それがいいことか悪いことかわからないけど、その学問的雰囲気のままずっとグループに属していたら、切磋琢磨されはしただろうけれど、自分のことばがなくなっていったかも知れない、というかそれはそれで気持ちわるかったかも知れない、ともおもう。というのは一般的な状況に還元するのはためらわれることだけれども。
いや、ただ単に、いい本のよさをひとに説明するのが、私はひどく不得手だというだけかも知れない。しどろもどろになりやすい。

8月14日の日記

2013年8月14日 読書
帰郷から帰京したらにわかにエンゲル係数があがったような気がする。
きょうニース風サラダをつくらんとスーパーに行き、ほしいものが安売りなのもあっていろいろ買ったのだけれど、レシピに対して葉もの野菜を買いすぎたよう。きょう明日あさってはもううさぎのようにむしゃむしゃしなければならない。

母の手料理が、むかしよろこんで食べていたほどには、おいしくなかったのは、私の舌が肥えたのか嗜好がかわったのか、どちらもあるだろうけれど、母が料理じたいによろこびを感じていないようなのが、原因であるような気がする。こどもたちはみな家を出てしまい、祖母も父もお世辞にも洗練された舌ではないので、(素朴な料理に対する感性も、ない)、やる気がなくなっていくのは当然なのかも知れない。夕食をつくって食べるともう気力がなくなって(というのは、暑さのせいもあるけれど)、皿洗いも片付けも明日やるからと言い出すので、ほとんど全部私がやった。(妹はたとえ息子の世話がなくても、無論オムロンほとんどやらない)。片付けを率先してやるひとがいなくなるというので、帰京の際はえらく惜しまれた。

畑のできがよろしくないというので、意外に野菜を食べる機会がなかったのが残念で、だからこう買い込んでしまった、と言い訳の用意。

この本はほとんど観賞用だけど好きだお。
長尾智子は台所の孤独というものを知っている、うまく付き合っている気がしています。台所にたつひと(特に/主に主婦)はきほん孤独なのね、というのは「ナチスのキッチン」を読んで「おおおなんで知っていたのに知らなかったんだ」とあほの衝撃を受けた。こどものころ、料理を手伝ったり台所で宿題をしたりすることで、私は母の孤独の軽減にささやかながら寄与していたのだとおもいます。やっほ。

8月14日の日記

2013年8月13日
帰郷してきた。

帰郷先からかえってくると、帰郷したときたいがい無気力であったのに気づく。フィルムのカメラを持って帰ったけれどあまり撮らないままだった。特に撮ることが、ないような気がしたので。提灯に囲まれた神棚と仏壇を撮っておくべきだったかも知れない、帰郷の理由は第一に亡くなった祖父の初盆であったからだ。祖父の不在にとくにだれも堪えることもないようだった。暑さだけが堪えた。甥や姪の世話をする振りをして、お経もろくにきかなかったのが、死者に対する神妙さに欠けていた。
祖父について思いめぐらすそのやり方も、とくに変わらなかった。愛想笑いをする必要がなくなったのはよかったかも知れない。祖父の残したことどもについて、いっしょに帰郷した妹と話しながら、いっしょに呆然とした。母から、かびた鰹節のような、恨み節を聞かされた。祖父の残したことといえば借金であり、金にまつわる恨みつらみであり、抗がん剤のために禿げはじめた父であり、なんとなく小ぎれいでない、虫のいる家である。

祖母が食欲がないときによく食べる、という豆乳入りこんにゃくなる食品をすすめられて食べたら、まずかった。まずいものを食べてなんともおもわないひとはそれだけで信用しがたいのに、「お米も野菜も大事にたべなさいよ」と食物の扱いに対しておおざっぱな母に当てつけるように、母が不在のときに言われて、信心深いひとというのは悪気がないので度し難い。
父は岩波の日本古典文学全集を購入していて、全集を全巻揃えたにも関わらず父がする古典の話といえば伊勢物語の東下りのみで、それを何度も繰り返す、そんなとき東下りはぜつぼうてきに死んでいた。東下りの主人公はぜつぼうしてメランコリックになっていたが、聞かされる私はぜつぼうしてさむくなった。「かきつばたって知っているか」と言って語りだすのが決まりであった。インテリ崩れほど死んでいることばをはく人間もいないのかも知れない。
そんな父が母との口論の際に「豚!豚!」と何年か前から言いはじめて、そんな語彙をどこから仕入れてきたのか、学生運動の残滓のような時代に学生時代を送った残滓であったのか、興味深くおもったけれど、繰り返されればそのことばもぜつぼうてきに死んでいた。「豚!」以外に、なぜ豚であるのか注釈のようなものもなく、なにも文章がでてこないので、ほんとうにことばの出てくるところが死んでいるのだとおもった。

在特会もことばが死んでいて、内容もひどいけれどそれより先にことばが死んでいることにおどろいてさむくなってしまったりする。
ああ、ことばが死んでいる、というところにときおり遭遇してしまい、言っている端から私のことばも死臭を放っているのかも知れないけれど、ことばとはもともと生きているも死んでいるもないのかも知れない。ことばは事実を言い当てればよいのだということでもなくて、真理のようなことばもそれが消臭剤のように置かれるだけなら、それでは私は用がない、生きていかれない。

伊勢物語ではわりと有名な話かも知れないが、つゆと答えて消えなましものを、という歌のある話がすきです。
帰ってからご飯をつくり、または、つくってもらい、たらふく食べて片付けもしないでしあわせに寝てしまい、いっしょに食べたひとがきれいに片付けたあとを翌朝みせつけられる、ということをよく繰り返している。
食べたらすぐ眠くなる。牛である。

高山なおみには「食べたいものを食べる」という自由さと気ままさがあふれていてよいとおもう。蒸し鶏の展開の仕方や塩もみ人参や、ナンプラーの多用などはよくまねしている。だけどエッセイなどの語りくちが苦手で本は買ったことがなく、もっぱらネットや立ち読み、雑誌で参照するだけである。
なぜか最近ミネラルウォーターの炭酸水が飲みたくなる傾向があり、コンビニで買えるそれといえばゲロルシュタイナーなので、何回も買っているのだけれど、おまけでいちいちムーミン谷の缶バッヂがついてきて、そうなるともう毎回ちがう柄を選んでしまうものだから、もうコンプリートしそうな勢いで困っている。

軟水はもともと苦手で、硬水の炭酸水が好きなので、ときおり炭酸ではないけどエビアンも買ってみる。エビアンの1.5リットルボトルには、ポールアンドジョーのテープがおまけでついていて、それはうれしかった。そのキャンペーンはもう終わったのかな。

職場のひとに缶バッヂをみせていたら、あなたはスナフキンだよね、と言われたが、まるきりハズれなので悲しくなったけれど、ぼんやりしているところがそうおもわせるんだとおもいます。
八ヶ岳連峰の赤岳、阿弥陀岳に登った。

登ってる途中で当然のことながら至るところに土があり、というかいろんなものは土から出て来るというか派生して来るのだから、いま絶賛闘病中の、職業としては土木に携わる父親のことをおもいだし、父は土が好きとまではいかなくても、親しみを覚えているのには間違いなかろうが、関わり方として土木は間違っていたかも知れないとおもった。土を掘り起こすにしても考古学とか、そういう関わり方もできように、土木という資本主義的な、というのが間違っているなら、ひどく文明的な?ものに関わったのが、運のツキであったような気がする。学者であれば土木の学問的なおもしろさに単純に埋没できようけれども、職業としてまして自営業であればわずわらしい人間関係もこなさなければならないが、基本人間が好きではないので、そこがうまくいかなかったかとおもう。(談合などは当たり前と聞いた)。しかしそもそも学者のように勉強好きでもないし、考古学に必要そうな辛抱強さもないだろうから、けっきょく、彼はいろいろ間違ったというだけで、私もまたあるはずだった父の幸せな姿について、思い違いをしているはずだ。
中上の「枯木灘」にあるような、土をあたる労働の単純なよろこびは、私の家の家業とは遠くあるようにおもえた。

まあ、山に登ったらいいんじゃないですかね、と自分が登山を楽しんだのでおもった。よくなったら尾瀬に行ったりしたらいいんじゃないですかね、私は旅費を負担するつもりはさらさらないんだけども。お金さえだせばいっしょに行ってやってもいいかもね、とおもったけれど、ところかまわず立ちションし唾を吐き捨てるような反文明的な性をつぎにおもいだして、やっぱないわ、ぜったい連れて行かないわ、と私のなかの優しさのようなものは瞬時に立ち消えた。
父の近況を聴き及び、ラ・グロイールみたいじゃん! と興奮した。

自分を見放し神からも見放されたような人にこそ神がいるのかも知れない。よく考えたらラ・グロイールとちがうんだが。やーだあたしのロマンティックが走りすぎたわ。
このマンガはリアルタイムでみたときには、りぼんにしては絵が気持ちわるく、また作者のテンションも気持ちわるく、あまりのりこめなかったのだけれど、逆にその気持ちわるさが強烈で忘れがたく、何年か前に友人に借りて読み直したときは、ひじょうにおもしろく読めて、自分がおとなになったような気がした。

私の父は心配性ではなく、父にたいして心配性を発揮するのも甲斐ないことであり、とりあえずは人間らしい母のことをときどき心配してみる。その母は空振りしまくりでもいまだに父のことを心配している。といえども母は、献身的ではあれども立派な人間ではないので、保守主義者が膝をうってよろこぶような美談はなきに等しい。
あらたに父に関して心配ごとが浮上したけれど、けっきょくのところ、おなじみの上塗りに上塗りされただけであるような気がして、その重大事にふさわしく騒いでいるのはまた母だけであり、私と妹は母に合わせるように心配のまねごとをしてみるけれど、熱がはいらない。私たちの家はなぜ普通でないのだろうか、とおなじみの嘆きにうつってしまう。

心配症の人間といえば、まっさきに大江健三郎がおもいだされるのは、私の恣意的なおもいこみなのか。大江健三郎が核戦争の可能性を倦むことなく訴えるのを、友人は、大江ってさけっきょく核戦争が起こってほしいっておもってるんじゃないかとおもうんだよね、と笑っていた。とはいえ、大江が真にすぐれた作家となるならば、それは核戦争が起こらなかったときで、大江は予言をはずした偉大な予言者として、少なくとも私のなかでは偉大になるだろう。わるい予言があたって喜ぶのは三流の予言者だ、というのが言い過ぎなら、すくなくとも善良さには欠ける予言者だろう。そんなひとならいくらでもいる。

母は心配性ではあるけれどあまり頭がよくないので、予言的な人間ではないのだが、ただこの家は呪われていると警告を発しつづけていたのは、人間の所行として正しいのかも知れない。でもげんなりするような事柄を押しとどめることはできないので、ますます苦悩が深まるらしい。でも阿呆だから。

おいしかった

2013年7月2日
鍋にオリーブ油を熱しクミンシードをいれ、香りがでるまで炒める。適当にカットしたにんじんを炒め、油が回ったら鶏手羽をいれ炒める。鶏手羽の外皮の色が変わったら酒適宜をいれ塩少々をふり、ふたをしてごく弱火で放置する。30−50分くらい?鍋底に少量スープがたまっていたらひよこ豆をいれ、軽く炒め、再び放置。15分くらい?
ニョクマムを適宜加える。スープに塩気とコクを与える程度に。ニョクマムがなじんだかなという頃に味をみて、刻んだ香菜を加え炒め、塩気がたりなければ調整する。
器に雑穀ご飯とともによそう。スープも適当に加えること。

という料理を適当につくって、すごくおいしく、いっしょに食べた人にも好評だったのだが、もういちどおなじものをつくれと言われたら心もとない。いまレシピを書き興してみても、なにか書き落としたことがないか、不安である。けれどもこのくらいの適当さでないと、ふたたび試みようとする気持ちが起こらない気もする。
料理は厳密にいえば、基本的に一回こっきりの、複製不可能なしろものなのかも。
ポイントとしてはにんじんの青臭さを甘さに変えることであり、けれどもにんじんのうれしさは残すことであり、そのためにはにんじんをほどよい大きさに切らなければならない。そして加熱時間はこころもち長めにとる。ご飯は白米よりも雑穀ごはんのような、ちょっと癖のあるごはんがいい。パンならば、なんなのかな。カンパーニュにあいそうであわないような。ふつうのバゲットなのかな。
これはなんていう料理? と訊かれて、答えに詰まった。鶏とにんじんのクミン煮と言えばいいのかな。コリアンダーは香菜なのだ、ということをこないだ知ったので、香菜も加えてみたのだった。
この料理に合わせるサブ料理がよくわからなかったので、ワンディッシュになった。栄養的には偏っているのかな、とおもいつつ。いっしょに食べたひとがキリンのハートランドビールを買ってきていたので、すこしもらう。お酒のことはわからないが、好相性だったような。

食べることの自由と、食べることの〈塩〉。

あ、そういえばタイムもごく少量加えたけれど、意味があったかよくわからない。
頭のいいひとに在特会の話をしてみたが、終始生返事で、反応が芳しくなかった。熱っぽく在特会の話をしていたのが、あとで振り返れば、まるで在特会のひとみたいにおもえて、気持ちわるかった。そのひとも気持ちわるかったんでしょうな。
すごく興味を引かれていてこの本も読んだのだが、実際動画をみてみたりするとかなりきついし、それ以前に本で読んだだけでもきつい。食欲がなくなる。

既存の右翼的な組織とは関係ない、むしろそういう組織とは遠くありたいとおもっているひとたちが、こういう運動に取り組んでいるということ。それが私にはものすごくこわくて、周りのひとに警鐘を鳴らして回りたいくらいなのだが、気持ちわるくおもわれるのだろうな。むー。
私も在特会のひととおなじくらい普通のひとで、だからこそ、望まなくてもいずれ飲み込まれそうな感じがしてこわいのだが、頭のいいひとには私のこわさや興味がわからないらしい。

ならず者の最後の逃げ場がナショナリズムである(うろ覚え)、とどこかの偉いひとが言っていたけれど、からゆきさんの愛国心や、西光万吉の国粋主義への傾倒をおもい合わせると、ナショナリズムは単にならずものの逃げ場だとは片付けられないようなー。でも不勉強すぎるので勉強したいけれどけわしい道のり・・・
 葬式の際には、祖父を誰よりも嫌っているはずの母の提案で、私が弔辞を読むことになった。孫ではいちばん年長の兄を差し置いてなぜ私が、と抗議すると、「こげなときは、女が読むほうが感動的なんよ」と母は答える。
 斎場の司会者の、では故人がとりわけかわいがっておられた孫娘の鮎美さまからおじいさんへ最後の言葉です、という大げさな前置きに立ち上がって、棺のまえに歩きでて、最初の発声がスピーチを左右するのよね、とおもいながら、ゆっくり「じいちゃんへ」と言いはじめた先から、私の声は涙でふるえていた。

 祖父の頑さは生来の性質であったのか、どうか、と考えると、祖父は十七で自分の父親を亡くしたらしいと聞き及んだのをおもいだす。曾祖父は結核で亡くなり、家族の幾人かも結核で死んだので、〈結核の家〉と呼ばれていたとも聞いた。
 祖父が十七のころといえば終戦前後だったはずで、そのころに田舎で、家の拠り所となるはずの父親を亡くすというのが、どういうことなのか想像しにくい。農業で生計をたてられるほど豊かな地ではなかったから、祖父はしぜんとほかの仕事をしながら米をつくったり自分たちが食べる分だけの畑を耕していたとおもうが、ひとに付き従ったり合わせたりのは心底嫌いだったからだろう、三十代の頃に自営業を興したらしい。

 亡くなった次の日に棺にいれられた祖父のうえに、背広の上下が置かれた。これからの旅路に正装をということなのだろうか、私の知っている祖父はいつも作業着を着て、機械かなにかの油の臭いをさせてトラックを運転したりいつも動き回っていたから、なにかちぐはぐな気がした。働かなくていいから背広なのだとおもうことにして、違和感をのみこむ。いつまでたっても引退せん、じじいらしうすりゃいいつに、という母の愚痴をおもいだし、もう働けないですね、ざんねんですね、と皮肉っぽく胸のうちで言ってやる。

 私が上京してからいつのまにか、祖父母と両親の食卓が分かれた。祖父は母や私たちがなにかよいものを食べているとみなしたときに、てえしたもんだ、とよく嫌みを言ってきた。方言では別の言い方になるのに、テレビのなかのことばで言うのである。その前から、祖父の〈てえしたもんだ〉はおなじみのフレーズで、服かなにか買い物をして帰ってきたときなどでも、てえしたもんだ、と言ってきた。祖父を考えようとするとまず浮かぶのは、その苦い顔と堅い声である。
 たぶん私たちお母さん方とおもわれよったから、それで気に食わんかったんやないん、と妹は言う。祖父はとりわけ母と仲がわるかった。母の自己顕示が強すぎるから軋轢が生じる、と結論づけたくなるけれど、たとえおとなしい嫁であっても祖父は苦しめたとおもう。母の味方をする私たちには、祖父は心を許せなかったらしい。

 先に生まれたものは後から生まれてきたものに、渡さなければならない。無償でも有償でも、なにもかも。私たちはただひたすら奪うだけであったらしいのが、気に食わなかったのだろうか。自分にはなかった豊かさや安定や、家や、祖父母両親そろった家庭を、私たちはとくに感謝もせず享受するばかりの存在であった。しかもその大半が自分が築いたものとおもって、腹立たしかったのだろうか。
 私たちはなにも祖父に与えるところがなかったのだろうか。
 私たち、幼くて無力な者が、祖父になにか与えることができたとするなら、なにか与えようとする気持ちを祖父に生じさせることであるだけのような気がする。私たちにはそれができなかったらしい。奪われるだけの生だったなら、貧しく、不幸な生だっただろう。

 棺のなかの祖父が眠ったような安らかな顔をしているのを、親戚が、おおきれいな顔をしているねと泣いていたのにつられるように、母が棺のまわりの人だかりに背をむけて泣き出した。したい放題やって、面倒なことはぜんぶ押し付けて死んだつに、眠ったような顔をしちょんのが、腹立たしい、と言って泣いていた。
 私は親戚のひとたちから、働き者やね、いつでもお嫁にゆけるわ、とお墨付きをもらって、東京にもどった。鮎美しか泣きよらんかったのう、と親戚のおじさんが言よったらしいよ、と妹から聴いた。涙ぐんだひとはいるだろうけれど、泣いたのは私だけであると印象が強かったらしい。おかあさんも泣きよったよ、べつの意味で、と妹に言う。
 東京にもどって古本屋で買った富岡多恵子のエッセイ集を開いたら、「人が死んであまりに泣かないのも、周りを困らせる」と書いてあった。祖父の周りのひとびとが祖父の死に対してあっさりしすぎている、と母がやや忌々しそうに、いくらか恥じ入るようにこぼしていたのは、こういうことなのかなとおもった。
 母が泣いたのは、母の悲しみだった。私が泣いたのは、葬式の雰囲気につられたせいがあるので、じゅうぶんに私の悲しみではなかったような気がする。私は祖父を失った悲しみについて、考えなければならないのだろうか。

 祖父は私の、ふるさとの一部だった。油の臭い、てえしたもんだという堅い声、犬をかわいがる高い声、耳が遠くなった結果いつでも怒鳴るように話し、テレビの音量をかぎりなく上げていたこと。
 ほとんど呪いのような態の、親しんだことどもを、悲しむというより忘れたい。
 私がちいさいころ祖父によくインスタントのコーヒーをいれてあげたことを忘れたい。粉末のミルクと砂糖とコーヒーの苦さがちょうどよくなるように、何度も味見していれたことも忘れたい。
 ふるさとをぜんぶ忘れて、あそこにも誰にも関係のないひとになりたい。あそこにも誰にも関係のない生は、どんな感じだろう。きれいなまんまるのゼロみたいな。
 だけどそれはすごく、不可能で、むずかしさにいらだって私は祖父に言うのである。死ねばいいのに、あんたも、私も。

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