スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし
2015年9月14日 読書ダメージについて続きまして
2015年8月21日帰省のときにも、女にたいして強い態度に出るクソ男の話を耳にしたので、クレーマーの件でのげんなり度が増す。
弱い立場やマイノリティにたいして強い態度に出る、といったようなやり方で何度も打ちのめされていると、ダメージはその度に何倍にも膨らんでいく、というのを理解するのって、残念ながら多くの人にとってはすごく難しいのだろうなあ。ダメージを受けて耐性ができたり強くなったりするとスポ根もののように思われたりするし。あるいはその人の受けているダメージを過小評価してしまったり。
なんか当たり前のことわざわざ書いた気が。
弱い立場やマイノリティにたいして強い態度に出る、といったようなやり方で何度も打ちのめされていると、ダメージはその度に何倍にも膨らんでいく、というのを理解するのって、残念ながら多くの人にとってはすごく難しいのだろうなあ。ダメージを受けて耐性ができたり強くなったりするとスポ根もののように思われたりするし。あるいはその人の受けているダメージを過小評価してしまったり。
なんか当たり前のことわざわざ書いた気が。
職場で電話にでたら、苦情を言われた。その苦情は一応ごもっともな内容で、ご不快なおもいをさせてしまいすいませんすいません、と言うしかないものだったけれど、その人の言いようのあまりなやくざぶりに驚いた。クレームの内容上その人の名前や所属を明らかにしなければ話が始まらないものだったのだけれど、そんな〈偉い〉人(けっこうなお歳)がこんなやくざな真似をするなんてこれ私訴えたら勝てるのではないだろうか、そこまでやらないけど、てゆうかビョーキなんだなこの人、と思いつつ、申し訳ございませんでございますと二十回くらい言っているうちにクレーマーは多少落ち着いたらしく、こちらがしかるべき対応をさせていただきますです、ということで終わった。電話を切ると、職場のみなさんがいっせいに憤ったり慰めてくれたりした。私が帰るときにも、対応させてごめんなさいね、と言ってくれたりした。
その次の日に、電話を受けた日にはいなかった先輩まで私を労ってくれた。先輩は私にすごく同情してくださり、「聞き手が女性だとみなすと途端に強い態度で物申す男性がいるのよね、ほんとうにひどい」と憤ってくれたのだが、そのあとからなんだかじわじわ気分が落ちてきた。というのは、まったくその先輩のせいではない。
先輩の指摘は私がぼんやり感じていたことと同じで、妙な納得を得られた。私が女だからクレーマーはあのような強い態度に出たらしいと思うと体から力が抜けてゆくような気がした。これは、私みたいなのほほんさんの意識は、毒々しいものをとりあえず遅効性にすることにしているだが、その毒がだんだん効いてきたことにもよる。また帰省で心身が疲れていたせいもある。
たとえば、このクレーマーが女性であったら、私は〈めちゃ怒りっぽい人〉くらいな感想しかなかったのかも知れず、気分の落ちようも違ったのではないか、と思う。(とはいえそのクレーマーのやくざぶりは、ある意味とても「男性的」であったが)。私が女性で、相手が男性だというだけで、クレーマーが強権的な態度に出たと認識すると、打ちのめされたくらいのダメージを感じることになるんだなあ〜と思った。打ちのめされたとまではいかなくても、嫌悪感や気持ちわるさが倍増する気がする。
まあそのクレーマーは優しい声の若い男性が電話にでても似たようなことをしたかも知れないし、私が気弱な声で申し訳(以下略)と言っていたせいで気が済んだのかも知れない。
ともかく職場内にはそういう類いの方はいないし、ガン無視するような方もいないので、よかったっす。
その次の日に、電話を受けた日にはいなかった先輩まで私を労ってくれた。先輩は私にすごく同情してくださり、「聞き手が女性だとみなすと途端に強い態度で物申す男性がいるのよね、ほんとうにひどい」と憤ってくれたのだが、そのあとからなんだかじわじわ気分が落ちてきた。というのは、まったくその先輩のせいではない。
先輩の指摘は私がぼんやり感じていたことと同じで、妙な納得を得られた。私が女だからクレーマーはあのような強い態度に出たらしいと思うと体から力が抜けてゆくような気がした。これは、私みたいなのほほんさんの意識は、毒々しいものをとりあえず遅効性にすることにしているだが、その毒がだんだん効いてきたことにもよる。また帰省で心身が疲れていたせいもある。
たとえば、このクレーマーが女性であったら、私は〈めちゃ怒りっぽい人〉くらいな感想しかなかったのかも知れず、気分の落ちようも違ったのではないか、と思う。(とはいえそのクレーマーのやくざぶりは、ある意味とても「男性的」であったが)。私が女性で、相手が男性だというだけで、クレーマーが強権的な態度に出たと認識すると、打ちのめされたくらいのダメージを感じることになるんだなあ〜と思った。打ちのめされたとまではいかなくても、嫌悪感や気持ちわるさが倍増する気がする。
まあそのクレーマーは優しい声の若い男性が電話にでても似たようなことをしたかも知れないし、私が気弱な声で申し訳(以下略)と言っていたせいで気が済んだのかも知れない。
ともかく職場内にはそういう類いの方はいないし、ガン無視するような方もいないので、よかったっす。
それ、ファッションなの?
2015年8月19日実家に帰った。2週間弱いて、甥や姪の振る舞いに笑い転げたり、義姉としみじみお話したり、楽しく過ごしたけれど、げんなりすることや身震いするようなことを見たりきいたりして、やっぱり、疲れたのねん。私は私なりに相当スレているはずなのだが、田舎は怖い。生きてくのが怖い。人間が怖い。しばらく帰りたくない...なんて思っていたら、一周忌は無理して帰ってこなくていいわよお金も大変だし、と母が言い、態度に出したはずはないのだけれど悪いことした気分。
帰郷に合わせて、パンツやサンダルを買った。初盆なので畏まった服装といえば喪服を着るくらいだったので、ほかはラフなゆるい服を着ていたら、なにか母をはげしく心配させたらしく、東京へ戻る日に田舎のイオンに連れて行かれ、服を買ってもらった。ユニクロや無印さえない田舎のイオンに私の欲しい服があるわけがないので、懸命に辞退したけれど、けっきょく母の熱意にのまれて、コムサなんたらというところの服を買ってもらった。バッグも買ってくれそうだったけど、たぶん1回も使わないだろうと思ったので、そこは猛烈に辞退した。財布も買ってくれると言ったけれど、「あの、近々Tさんが買ってくれる予定だから!」と夫の名を借り噓をついた。私はラフな格好を好んでしているけれど、それが母にはファッションの一環だとは映らないようです。母のセンスの問題か、私のセンスのせいなのか。だいたい買ってったパンツとサンダルはUA系列のものだったのに...orz
帰郷に合わせて、パンツやサンダルを買った。初盆なので畏まった服装といえば喪服を着るくらいだったので、ほかはラフなゆるい服を着ていたら、なにか母をはげしく心配させたらしく、東京へ戻る日に田舎のイオンに連れて行かれ、服を買ってもらった。ユニクロや無印さえない田舎のイオンに私の欲しい服があるわけがないので、懸命に辞退したけれど、けっきょく母の熱意にのまれて、コムサなんたらというところの服を買ってもらった。バッグも買ってくれそうだったけど、たぶん1回も使わないだろうと思ったので、そこは猛烈に辞退した。財布も買ってくれると言ったけれど、「あの、近々Tさんが買ってくれる予定だから!」と夫の名を借り噓をついた。私はラフな格好を好んでしているけれど、それが母にはファッションの一環だとは映らないようです。母のセンスの問題か、私のセンスのせいなのか。だいたい買ってったパンツとサンダルはUA系列のものだったのに...orz
リバーズ・エッジ オリジナル復刻版
2015年7月19日 読書
スマホにしたついでにTwitterをはじめて半年以上たって、デモや抗議の情報や、気になる人の発言をすぐに追えるのはいいけれど、情報量の多さに疲れる....情報処理能力があんまりないせいだけれど。そしてネトウヨやあほな保守の意見を目にすることも多くなりやっぱり疲れる......ってそういう輩をフォローしてるわけではなく、フォローしてる人がそういうのを批判してるのを読むからだけど。
90年代やゼロ年代初期に活躍したり感性ができあがったりした人の物言いに勝手にガッカリしたりしてるけど、なんか、平坦な戦場観に毒されすぎてない?って思ったりする。
リバーズエッジには影響を受けたほうだとおもうけど、イマイチ自分の本!になってなかった、いま思えば。
90年代やゼロ年代初期に活躍したり感性ができあがったりした人の物言いに勝手にガッカリしたりしてるけど、なんか、平坦な戦場観に毒されすぎてない?って思ったりする。
リバーズエッジには影響を受けたほうだとおもうけど、イマイチ自分の本!になってなかった、いま思えば。
ワーアゲインストワー
2015年7月18日 音楽
先月からしばしば自分の予定にデモや抗議が組み込まれはじめて、腹筋を鍛えられそうな夏。
今週も議事堂前抗議に2回行った。議事堂前ではスピーチとコールが交互にある。学者や著名人がやって来てスピーチをするのだが、ちょっと退屈なスピーチもあったりする。ちょっと場所が悪いと全体が聞き取れないこともあるので、正直スピーチの間はだるいなあと思ったりするのだけれど、学生のスピーチは懸命に聞くようにしている。おそらくこんな場所に慣れていなかったり、生まれて初めてこんな場所で喋ったりする子たちのことばが、ほんとにどんな学者や著名人のスピーチより、私には傾聴に値してしまう。のは、私が年を取ったせいもあるのかな。
昨日はあまりに体調悪かったので、敢えてひとりで行って後ろのほうでipodで音楽聞いたりして1時間で帰っちゃえー!とへんな決意をして行ったら、友だちに会い、前の方行こうよ!と促されて目論みがあえなく破算した。
友だちは3・11以前からデモや市民運動に参加しているので、「国民なめんな」というコールの「国民」にたいそう違和感があるそうで、「市民をなめるな」と言い替えていた。私も「市民をなめるな」と言い替えてみたけれど、今回は安保法制が違憲であるというのが特に問題でもあるし、憲法に書かれてる「国民」てことばでもいいんじゃないかな、と思ったりした。私は原発事故以降に参加してるので、「市民」ということばに逆になじみがない。脱原発関連のデモや抗議のときはあんまり出てこなかった気もする。
ネトウヨが「国民」ていう時ははっきり排除対象があるので、「国民」ということばにはあまり乗っかりたくないときもあるけど、いま盛んに活動している学生たちは運動の時の「市民」ということばを知らず、日本に住んでる人はみんな「国民」って呼んでいいんじゃないカーくらいな感じで使っているのだと思う。私もそういう意味で「国民」とつかいたい。でもその友だちの日本に住んでいる人の多様な出自を無視していることばだという思いもわすれないでいたい。
そして私は俗物すぎるのか、「市民」というとなぜか「市民税などの税金を納めてる人」「用があって市役所に行く人」みたいな感じがしてしまうのであった。
今週も議事堂前抗議に2回行った。議事堂前ではスピーチとコールが交互にある。学者や著名人がやって来てスピーチをするのだが、ちょっと退屈なスピーチもあったりする。ちょっと場所が悪いと全体が聞き取れないこともあるので、正直スピーチの間はだるいなあと思ったりするのだけれど、学生のスピーチは懸命に聞くようにしている。おそらくこんな場所に慣れていなかったり、生まれて初めてこんな場所で喋ったりする子たちのことばが、ほんとにどんな学者や著名人のスピーチより、私には傾聴に値してしまう。のは、私が年を取ったせいもあるのかな。
昨日はあまりに体調悪かったので、敢えてひとりで行って後ろのほうでipodで音楽聞いたりして1時間で帰っちゃえー!とへんな決意をして行ったら、友だちに会い、前の方行こうよ!と促されて目論みがあえなく破算した。
友だちは3・11以前からデモや市民運動に参加しているので、「国民なめんな」というコールの「国民」にたいそう違和感があるそうで、「市民をなめるな」と言い替えていた。私も「市民をなめるな」と言い替えてみたけれど、今回は安保法制が違憲であるというのが特に問題でもあるし、憲法に書かれてる「国民」てことばでもいいんじゃないかな、と思ったりした。私は原発事故以降に参加してるので、「市民」ということばに逆になじみがない。脱原発関連のデモや抗議のときはあんまり出てこなかった気もする。
ネトウヨが「国民」ていう時ははっきり排除対象があるので、「国民」ということばにはあまり乗っかりたくないときもあるけど、いま盛んに活動している学生たちは運動の時の「市民」ということばを知らず、日本に住んでる人はみんな「国民」って呼んでいいんじゃないカーくらいな感じで使っているのだと思う。私もそういう意味で「国民」とつかいたい。でもその友だちの日本に住んでいる人の多様な出自を無視していることばだという思いもわすれないでいたい。
そして私は俗物すぎるのか、「市民」というとなぜか「市民税などの税金を納めてる人」「用があって市役所に行く人」みたいな感じがしてしまうのであった。
伯父がなくなったので従姉や妹と帰郷。私は一週間休みをもらってほとんど伯母の家に滞在していた。何かしら役に立たなければ! という気持ちを抱いて動き回り、たいして役に立ってないし機敏に動いたわけでもないのだけれど、疲れた。とはいえ仲のよい母方の親戚なので、たとえば昨年や一昨年自分の父方の家族が亡くなった時よりは、ひとりでやきもきすることもなく過ごした。従姉や妹が子どもの世話のためにそれほど手伝えなくてもまったく気にしていなかった。そしたら私が動き回っているのをみて、大叔母が「鮎ちゃんもね、子どもができたら、そんなに働かなくて済むよ」と言ったのに、なにそれ意味わかんねえ、と思ったけれど、「そうなのー? まー、早く欲しいわあ」と適当に返しておいた。大叔母には、そう言われる前にも、「鮎ちゃんは、つくるつもりあるの?」と訊かれたりして、とっさに「あー.........具体的な行動には、うつしていない......かなあ」とよくわからない答えをしてしまい、その場に居合わせた兄に「下ネタかよ」と指摘された。
大叔母は私の実家のある同じ市に住んでいたこともあり、小さな頃からよく面倒をみてもらったりして仲がよいのだけれど、この物言いや質問にすんなり反応することができなかったので、いくぶん濃密な愛と親切の空間からはみ出している繊細な自分をあらためて意識してしまった。微妙な感情を抱いても大叔母に対する感謝や親愛の念が揺らいだりしたわけではなかったし、伯母の家でも実家よりはたいへんリラックスして過ごしたのだけれど、東京に帰ってきてしまうと、ほっとした。電車の中などで、そこに居合わせているひとがそれぞれまったく関係なくあるような、濃密さがないことに。なんていうのは、私の願望のような幻想で、みなさんどろどろした濃密さが、家に帰ればあるのだろうが、とりあえず東京は、熱帯のような湿っぽい田舎よりは、空気の感じは砂漠のイメージなので。
昔読んだSonsを読み返してみたら、読書のアタリを引いたようだ。読みたいと思って読んだ本でも、感動したり感激したり感銘を受けたりした名作でも、その時分に胸の詰まるようなアタリってそうそうないような気がするけれど、アタラれた自分がいやしく恥ずかしく感じるほど、アタった。
私には愛情や親切というものが、天性で欠けているような、と思ってしまうのは、愛情をあらわさなければ、という義務に押さえつけられているような気が、ときどきしてしまって、とりわけそれはある女性たちにとってはとても重たい生の要請のようなものだけれど、私の場合は恥ずかしいほど軽い気がしている。単なる八方美人の延長のような。
って、このマンガはそれとは関係なく、すごくいいマンガですだよ。
大叔母は私の実家のある同じ市に住んでいたこともあり、小さな頃からよく面倒をみてもらったりして仲がよいのだけれど、この物言いや質問にすんなり反応することができなかったので、いくぶん濃密な愛と親切の空間からはみ出している繊細な自分をあらためて意識してしまった。微妙な感情を抱いても大叔母に対する感謝や親愛の念が揺らいだりしたわけではなかったし、伯母の家でも実家よりはたいへんリラックスして過ごしたのだけれど、東京に帰ってきてしまうと、ほっとした。電車の中などで、そこに居合わせているひとがそれぞれまったく関係なくあるような、濃密さがないことに。なんていうのは、私の願望のような幻想で、みなさんどろどろした濃密さが、家に帰ればあるのだろうが、とりあえず東京は、熱帯のような湿っぽい田舎よりは、空気の感じは砂漠のイメージなので。
昔読んだSonsを読み返してみたら、読書のアタリを引いたようだ。読みたいと思って読んだ本でも、感動したり感激したり感銘を受けたりした名作でも、その時分に胸の詰まるようなアタリってそうそうないような気がするけれど、アタラれた自分がいやしく恥ずかしく感じるほど、アタった。
私には愛情や親切というものが、天性で欠けているような、と思ってしまうのは、愛情をあらわさなければ、という義務に押さえつけられているような気が、ときどきしてしまって、とりわけそれはある女性たちにとってはとても重たい生の要請のようなものだけれど、私の場合は恥ずかしいほど軽い気がしている。単なる八方美人の延長のような。
って、このマンガはそれとは関係なく、すごくいいマンガですだよ。
伯父が突然倒れて亡くなってしまった。父がなくなって半年もたたないうちに。
みんないなくなってしまうのね。みんなみんな・・・
とメランコリックになっていたら、うれしい発見をした。あたらしい熊、こんにちは。私もきょうバターを、買いましたよ。
みんないなくなってしまうのね。みんなみんな・・・
とメランコリックになっていたら、うれしい発見をした。あたらしい熊、こんにちは。私もきょうバターを、買いましたよ。
なにかというと本能を持ち出す人は、あまり信用しない事にしている。世界はもっと多様だし複雑だし、なにかを本能で片付けるひとは、人類のこれまでの歴史とか、社会や教育が人間に与える影響とかに無頓着っていうか、勉強してないっていうか、怠慢なのではないだろうか。おまけに個人的なミソジニーを当たり前とするのって、恥ずかしいと思えないのかな。なんて。
妹が私のマンションから歩いて40分くらいのところに引っ越してきて、産休から仕事に復帰した。今週は妹の代理で、保育園へ何度か甥をお迎えに行った。都心のビルの一室に、子どもがわんさかいるのがシュールだった。小さいくせに生命力にあふれており、満員電車にわんさか大人がいるのとは、断然ちがう群れ。
子どもというのは不意に現れた大人を凝視してきたりするので、ナンダコノヤロー、などと言ってみたりするけれど、たぶんそんなお愛想のようなことをしているのは親ではない私だけのようで、たいていのおかあさんは先生に挨拶しつつ自分の子どものもとへまっしぐらに進んでいっているような気がする。私はちいさな子どもに色目を使うのに夢中で、帰り道によく先生にちゃんと挨拶できてない気がする!お世話になってますとか、言ってなかった気がする!などと思ったりして、妙に疲れる。そしてなんだか保育園の先生の安定感が落ち着かないなあと思ったりする、のは、私がやはり親ではないせいかしらん。
甥とは大分仲良しになったけれど、それって私自身が遊ぶときに全く子どもだからであって、なんか大人の余裕とはちがうのであるる。甥とあうあうあ、ぎゃはぎゃはぎゃはと意味のない会話をしていると、仕事中にもあうあうあ、などと言うようになりそう、私は笹舟よりも流されやすい。
子どもというのは不意に現れた大人を凝視してきたりするので、ナンダコノヤロー、などと言ってみたりするけれど、たぶんそんなお愛想のようなことをしているのは親ではない私だけのようで、たいていのおかあさんは先生に挨拶しつつ自分の子どものもとへまっしぐらに進んでいっているような気がする。私はちいさな子どもに色目を使うのに夢中で、帰り道によく先生にちゃんと挨拶できてない気がする!お世話になってますとか、言ってなかった気がする!などと思ったりして、妙に疲れる。そしてなんだか保育園の先生の安定感が落ち着かないなあと思ったりする、のは、私がやはり親ではないせいかしらん。
甥とは大分仲良しになったけれど、それって私自身が遊ぶときに全く子どもだからであって、なんか大人の余裕とはちがうのであるる。甥とあうあうあ、ぎゃはぎゃはぎゃはと意味のない会話をしていると、仕事中にもあうあうあ、などと言うようになりそう、私は笹舟よりも流されやすい。
愛の妖精 (岩波文庫)
2015年4月1日 読書
私、愛情が足りなかったのじゃないかしら、と思ったりする、というのは、与えるほう。ただ、幼い頃、もしくは子どもが家庭の年長者にあげられる愛情なんて、けっきょく、お返しでしかないのじゃないかしら。
私が子ども生むかどうかそれは神のみぞ知るだけど、子どもに、お前のくれる愛情はこれっぽっちなのかい?などとは、死んでも言わない。
死んだひとのことをおもいだすとき、私はあのようには生きるものか! と何回もおもった。それもひとつの親子のあり方として正しいのだろうが、やはり他の美しいことがないかなあ、と踏ん切りが悪い。
私が子ども生むかどうかそれは神のみぞ知るだけど、子どもに、お前のくれる愛情はこれっぽっちなのかい?などとは、死んでも言わない。
死んだひとのことをおもいだすとき、私はあのようには生きるものか! と何回もおもった。それもひとつの親子のあり方として正しいのだろうが、やはり他の美しいことがないかなあ、と踏ん切りが悪い。
こういう文章は好きではないぜ! などと思いながら頁をめくっていたけど、なんとか、ノってきましたよ。
小学生くらいのときだったか、エンターテイメントものや大衆文学しか読まなかった私の母が、「本はね、つまらなくても我慢して50頁くらい読んだらね、おもしろくなるのよ」と言っていた。それを聞いていたおかげで、私は本を読むのに慣れたようだ。そういうことを、読書の好きだった父からは教わらなかったと記憶している。
大岡昇平はクリスチャンだったのだろうか。時折はさまれる聖書の引用と、神の存在が、なんか不思議です。この小説を書くために、神の存在が必要だったのではないか、と思ってしまった。でも、まだ途中でーす。なはははは。
小学生くらいのときだったか、エンターテイメントものや大衆文学しか読まなかった私の母が、「本はね、つまらなくても我慢して50頁くらい読んだらね、おもしろくなるのよ」と言っていた。それを聞いていたおかげで、私は本を読むのに慣れたようだ。そういうことを、読書の好きだった父からは教わらなかったと記憶している。
大岡昇平はクリスチャンだったのだろうか。時折はさまれる聖書の引用と、神の存在が、なんか不思議です。この小説を書くために、神の存在が必要だったのではないか、と思ってしまった。でも、まだ途中でーす。なはははは。
世の中にそんなに悪いひとはいないのではないでしょうか、と私があることを報告すると、そう反応される方がいて、私はなるほどそれも、あるでしょう、とは思うのだけれど、私は、では悪とは何なのであろうか、と戸惑いもする。悪にいろいろ場面のあるうちに、すくなくともひとつは人を苦しめるのは端的に悪と言って、差し支えないではないかと思うのだけれども、では苦しみとは何なのであろうか。不愉快なこと、というのは生きていれば当然あるので、それは差し引くとして、苦しみとは、長い間続く悪夢のようなもの—―しばしば、覚醒しているはずの時にまざまざと体験する悪夢や疼痛のようなもの——それが自分や他人や世間にたいする信頼を失わせた結果、幸福を損なわせるもの、といったところだろうか。その苦しみを妄想であるとして封じ込めるひともいて、そういう場合もあろうけれども、そ言う行為が単なる方便になってしまったら、わたくしは信じないね。断じて。
事が家庭の、ひとつの家のなかで起きると、家庭内にはいろいろなベクトルがあるので、それがぶつかり合い、うまく行かないのでしょう、という人がおり、人の家のことを簡単に断定するのを避けるのは礼儀として正しいのかも知れないし、そもそも言ってしまう自分が、愚か者なのだとおもう。
事が家庭の、ひとつの家のなかで起きると、家庭内にはいろいろなベクトルがあるので、それがぶつかり合い、うまく行かないのでしょう、という人がおり、人の家のことを簡単に断定するのを避けるのは礼儀として正しいのかも知れないし、そもそも言ってしまう自分が、愚か者なのだとおもう。