「妖木犬山椒」という短編集を古本で手に入れたので、読んでいる。読んでる自分がどこにいるのかと不安になるような感じがあって、それは文体からくるものなのかなとおもう。「無妙記」はすごかった。慣れない船にのって、船酔いさせられた感じ。ぐらぐらと。
なんとなく町田康や、富岡多恵子を思い出した。ただ町田康は、酔いはするのだけどぐらぐらはこない、世代が近いせいでしょうか。
深沢の場合は、このリズムはどこから来るのだろうとおもった。解説を読むと、民謡にすごく関心を寄せていたようなことが書いてあるが、そのせいもあるのかな。それをこういうふうに書けるのは、すぐれて近代的ということなのか。

読書、昔にくらべて、立ち止まって読めるになったような、そのぶん、スピードが落ちて、タタタッと、いっぺんには読めない。

「ママが無事でよかったー(万歳している絵文字)。ジジババのまだ生きるか話を考えると、おかあさんってカクーンって行っちゃいそう、こわい」と妹にメールをすると「おねーちゃんは意外とおかあさん好きね。わたしおかあさんあんまり好きじゃないから、どうでもいい。どっちかつーとじーちゃんのほうがマシかな(笑)」と返ってきた。
自分に強迫観念じみて派生してきたものを恥じると同時に、妹は母のことが好きじゃないから話を聞けるのかも知らない、とおもった。私も好き嫌いを問われるならば、好きなほうではないのですが。
むすめ的には妹のほうが立派であろうので、引け目感じ……わすれてる!

そして、妹は男性との関係性(特に恋愛というわけではない、いろいろなもの)に対して、私よりもだいぶ気構えがないのだなと思った。メールの(笑)のついた文言を、真に受けているわけではないが、妹には祖父について許せる部分があるらしい。
あらためて省みると、私は祖父にはいろいろと恨みがあるなとおもいだして、疲れた。


兄と電話。兄の声は電話越しでは非常に聞き取りにくい。たぶん私は低い声を聞き取るのが苦手らしい。昔好きだった人もそうであった。いろいろ聞きたかったけれど、けっこう適当に聞き流してしまった…聞き返すの苦手。
H市山間部は壊滅状態で、明日も雨です、という、脅しだけ頂いた。


なんでみんな山を選んだの、山に流されてきたの?というわけで、画像の本を読む読む。

行けばよかった…
私が古本屋で手に入れたのは、この表紙ではなく、肌色したカバーのものだったけど。

台風でなかなかすすまない電車のなかで読んでいたら、猫を飼った経験がないせいか、むかし飼っていた犬のことをおもい出してしまう。なにも共通点などないのに。
うまい具合にぼやけているため美化された記憶のなかのクロは、ハンサムである。小柄な中型犬、毛があほみたいにもさもさしていたなかった、黒目がちのぱっちりした目、でもかわいさや優しさというものを表象しているわけではない目、あの目を何ていったらいいだろうか!
クロがハンサムであったと断言しうる所以、追憶に値する美点をつぎつぎあげて、(もしくは、つむぎあげて)、心細さを味わう。ひとりの帰り道、クロが併走してくれたらよいのに、もしくは帰る場所に、頬杖をつくように寝そべって、けものらしく匂うクロがいてくれたらよいのに。(私の家には犬にシャンプーしてやるような今風の習慣はなかった)。

とはいえ私はかいがいしく散歩させたり世話したりしていたわけではなく、どちらかといえば妹のほうがクロと仲がよかったのだけど。
クロもこんなふうに思い出されてはいい迷惑だわ、とおもいながら、クロがいてくれないかな、とまた私の心がつぶやくのである。

きょうは、数年前クロが死んだと聴いたときよりもだいぶ、クロのいないことが心細かった。

私のなかで、縫いものをめざす心に現在この本が寄り添うのである。めらめら。


 こぎん刺しのほうがなんか、モダンなかんじのものができそう。少なくともオサレな本が多い。淡い色で刺すとレースのようにもなりえるし。とりあえず刺し子にいそしみますけども、刺し子の本はわりかしもっさりしたデザインか、へんにファンシーすぎる傾向があります。


 黒い服を好んで着る人は頑なである、と言うのを聴いたことがあり、うなずきかけるけれども、灰色を好んで着る人のほうが、現代的に頑ななのではないかと思っている。


 バッグをつくる気はさらさらないのだけれど刺繍図案がかわいくて買ってしまった。
 刺繍って、たとえばお花の刺繍みたいな、何かを針と糸で再現するようなイメージがあったので、目からうろこ。あと、糸がそんなに原色っぽくないのがよいです。年をとると原色が目に痛い。


 雄鶏社が3年前に倒産していたことをいまさら知った。どうりで下の本が、ありえないほど高くなるわけだわー。

 この本よさげー、とさがしたらアマゾンの中古で定価の6・7倍の値段だった。ぎゃっふん。


 妹から久しぶりにメールがあり、お姉ちゃん刺し子ふきん作ったヨ!と画像つきで返信したら、「これ、千人針やん」との反応があった。わからなくもない、と思った。なんかすっごい思いがこもってそうだよね。
 それにしても千人針って、あれは戦争関連のいろいろな画像や物事のなかでも、凄惨な写真や逸話と並んで、トラウマ級に忘れがたいもののひとつだった。
山に登ったり緑の多い公園に行ったり、と言うと、草木や花に、自然に癒されているのね、とか言われるのだけど、ちがう、なんかちがう。私、自然なんか吐くほど嫌いだし、だいいち、公園にあるのは「自然」じゃないわ。

私のなかにいるマーガレット奥さんが、驚きを欲しており、自分と違う不可思議なものに、目を見開きたいのであるる。

material

2012年5月18日 音楽

なんかここ2、3日はacoがしっくりくるぜ。
このジャケみたいなうさぎのキーホルダー持ってるぜ。

aco - ひとつのくもり
http://www.youtube.com/watch?v=khaFYEcSeWU ←(サユリみたいなへんなジャポニズムな映像です)

aco - 真正ロマンティシスト
http://www.youtube.com/watch?v=M3wrsDZufzY&feature=related

Nabowa - キッチンへようこそ feat.aco
http://www.youtube.com/watch?v=2GSI4x85Z2k

細野晴臣ぽいのが気になっていたので、ユニオンで探せてよかった。他のやつは、なんかだめなのよね。

Ceremonials

2012年5月12日 音楽

フローレンスアンドザマシーンは、いいなとおもう曲もあるのだけれど、私にはなんだかゴージャスすぎる感じがして、アルバムを買うに至らない。魔亜子ちゃんは好きだと言っていて、それはなんかわかるぜ、とおもっている。

gleeでのカバーのほうがオリジナルより好きです。でへへ。
→GLEE - Full Performance of "Shake It Out"
http://www.youtube.com/watch?v=fkOiIsEpehc
連休最後の日は浜離宮庭園へ行った。
道を間違えて増上寺や芝公園のほうへ行ってしまったりしたけど。

緑のうしろに、青魚のように光るビジネスビルは、みょうに絵になる。いろいろな青魚の色があるのだな、とおもっていたら、みるみる雲行きがあやしくなり、神様が下痢をしかけているような音がひびく。ぽたぽた降り始めた雨を避けて、庭園内のしらないひとたちと走る、走っているとあっという間にゲリラ的な降りになり、着ているものがしたたか濡れてしまう。ひとの波にのって、青魚のひれの下、ビルのエントランスで雨宿り。傘を持ってくればよかった、とおもえないほどの雨。さいわいすぐに止んだ。

でかけると、ばちばち写真を撮る。落ち着きなくていやだな。でも、写真を撮ろうとおもってでかけると、出足がややかるくなる。ヴァルザー先生はよくふらふらとお散歩できたものですね。

Stoned & Dethroned

2012年5月6日 音楽
卵のパックを床に落としてしまって、3個ひびが入ったので、急遽パンケーキを焼く、20枚も。
これを聴きながら焼いていたら、なんだかとっても悲しくなった。喜びなく他人のためにパンケーキを焼いて、お金をもらっているひとみたいな気分になった。しかも15枚目くらいでCDが終わったし。
貝垣くんが捧(ささげ)くんと同居するというので引越しパーティー。捧くんは古い住まいの引き払いに追われて欠席。
なにか食べ物を一品持ってこいというので、女子たちは手料理を持ってきた。魔亜子ちゃんは野趣あふれるナスのサラダと優しい甘さのかぼちゃサラダ、志ろ田ちゃんはキャッチーなサモサと、ほっとするポテトサラダ。多稲子さんはアボガドのディップ。持ち寄ったものに、その人が表れる。(多稲子さんはほんとに、にんにく党なので、オリジナルレシピににんにくを追加せずにおられなかった)。
私はパイ生地をはぶいたキッシュ。前日に「まず失敗しない料理」を考えていたらそれしか思い浮かばなかった…。しかも焼きすぎたし。チーズが2種類と生クリームがいるのとで、ふつうだとなかなか及び腰になるので、つくれたのはよかったー。

こういう持ち寄りパーティーをするのが夢でしたの。生きてて良かったまじで。余った料理を持ち帰るのもまたたのし。もちろん思いでも増えてたのし。これからみなさんで貝垣宅にがんがん持ち込みをはかりたい。

森崎和江とニーナ・シモンの「誰のせいでもなく私のせい」が、私には共鳴している気がするので、何冊か読んでみるわ。

しかしこないだまでヒュペーリオンは超私の本や、なんて言っていたのに、この振れは! ちゃんと自分の食べ物にしていかないと、気が狂うまでいかんでも、しんどい。こういう振れは頭のいい人にだけ有りだとおもいます。

ニッキーさまの新譜を買いに行かねばなりません。
春の嵐、なのだろうけれど、このうらぶれた、つめたい住宅地では、風がひーす・くりふ!ひーす・くりふ!とわめきながら通り過ぎ、窓を「あたし!あたし!きゃしーよ!」って叩いてる。携帯電話に口寄せてがなり立てているひとみたいに。(いまやハンズフリーが主流ですか?)

嵐の前の、空の、不穏を煮詰めたような色には、わくわくした。

 この映画、友達に感想を聞かれて「セス・ローゲンがおいしいポジション過ぎ!」って訳のわからないことを言ってしまい、あとで後悔した。
 たぶん、たいていのひとは観ていて気持ちよくなれるのではないかな。結構笑わされたし。いい映画、なのではないか。私は保留しときたいけど。

 主人公の恋人がどうみてもひどい女のようにしか描かれていないのが、ちょっとどうなのかなと思った。それもあって、主人公の親友、女のケツばかり追いかけている「女好き」のセス・ローゲンが一番好きなのは、というのは掛け値なしに愛情を注ぐのは、どうみても主人公じゃん!と、臆面のないホモ・ソーシャル感が、そんなに好きになれなかった。
 がんで闘病した脚本家の実話が元になっていて、実際にその脚本家の友人であるセス・ローゲンが、この話を脚本にするように勧めたらしい。で、たぶんセス・ローゲンは、この作品で描かれているようなお下劣さを抜いた、いい人なんだろうな、と思った。

 「いい映画」って、たぶんそんなに好きじゃない。というか「いい映画」を褒めるの苦手。自分のひねくれ具合にたまにびっくりしてしまうわ。

 小説や映画が好きな人、虚構や想像力の海で遊ぶことが好きな人は、って、私がワンノヴゼム気味なのだけれど、ときたまそれらで遊ぶことが自分の人生や生活より優先されてしまったりする。近頃そういうのはどうなんだろうと思ってしまう。

 映画や小説のような、ドラマティックな人生や美しい生活を送りなさい、と言いたいのではない。虚構に溺れないで陸地に足をつけなさい、と言いたいのでもなくて。

 帰ってきて、と言いたい。そこに行くのはとめないけど、帰ってきて。できれば生命の泉の水を飲んで、そして汲んできて、バスチアンのようにさ。


 その水を飲むって、心を豊かにするってことだとおもうけれど、それが必ずしもそのひとを強くするわけではないし、人生や生活が容易くなるわけでもないのですけど。

 何が言いたいか、わかんなくなってきたけど。
 あー、私は貧乏性なので、本や映画に触れたら、何かしら身になるものを得たいと思いすぎるのであろう。勇気とか、寛容さとか。
 そしてそうではない人とは、話をしていてもどこかで食い違うのだろうな。

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