友達と「恋愛小説が読みたいなあ」と言い合っていた。そしたらこれを見つけたので、レンアイだー!と思って借りてきた。
 借りてきたものの読めなかった間に、昔みたこの映画版のことを考えていたのだが、あれ、レンアイじゃなかった、ちょっと違う気がしてきたナア…ともやもや思いだしてきて、全き恋愛小説はどこにあるんだろう、どこ?? 意外とない気がする…そしてページが10ページくらいで止まったままです。

 リリースから1年遅れで買って聴いてとてもよかった。私はAll Nightがいちばんお気に入り。
 わしはきっとのろのろひつじの方だなあ!と思ったけれど、読んでみたら、のろのろひつじは誇り高いひつじだったんだよ…。違うね…。

 真ん中あたりの、二人で森の絵を完成させるという話がグッときました。
 肩の上下を行き来しているだけの髪形に飽きたのでばさりと切った。
 それまで通っていた美容室を止めて、新しいところへ行った、などと書くと、槇原敬之みたいな歌がはじまるかも知れないけれど、やはり槇原敬之はそんなに好きではない。
 こんな髪形のこんな人を昔よく鏡の前でみたけれど、あのころと違ってシャンプーを変えたりしてやや髪を労わるようになったせいか、髪は懸念したほどには量的に爆発してない。でも変な癖っ毛はなかなか治らない。左の耳の前に来る髪が、なぜか後ろに流れたがるところとかが。

 新しく会った美容師さんは、私が初回なのに髪を短くしたがるのにいくらか及び腰だった。私変なのかなあ、と不安になって、実は金髪にしたいんですよねえ、とジャブを入れてみるつもりだったのだが言えなかった。
 と、金髪にしそこねたので、金髪の夢がなかなか抜けない。

きみは赤ちゃん

2017年1月27日 読書
 これはとても面白く読んで、あまり好きではなかった川上未映子のことを超見直した。
 こういうのを面白く読めることとか、子どもと遊ぶのが好きであることとか、すべての子どもに平等な機会があってほしい、自分は生きているだけで価値があるって骨の髄からわかっててほしいと思うことと、産めと言われることは全く違っているのだ。子どもは大事だと思ってるから、私も産みます!とならない。

 昔から、人生を左右するような事柄に関しての、命令のような助言に対しては、あなたの言うとおりになんかしませんよ!と拒否してきた。と思いだすと、ちょっと自分の反抗ぶりに——というより言うこと聞かなさすぎに笑いふるえる。
抄訳ならば読む意義がないかなあとおもいつつ手に取ってみたら、二回くらい読んだボヴァリー夫人が相変わらず面白くて、フローベールはやっぱりすごいんだね。「彼女は彼を墓の中から堕落させた」という文句にグッときた。みんな俗物で空っぽで、フローベールが容赦ないのにもシビれた。

 親戚関係のデリケートなとこ、いまそこ触ったらヒリヒリします、というところ、嫌ー。
 おれは寝ていたい。これをヘッドフォンで聴きながら寝ていたい。


 1、2月はそんなに予定もなく、過ごしていたけれど、どうして3月って慌ただしいのかしらね。日にちが決まっていない約束事が2つある。あ、いや、ふつうなのか。ふつうの人はそうなのか。


 雑誌とか書籍とかのページで指をさくっと切ったりすることはあるとおもうのだが、きょう自分は厚紙でさくっと指を切った。(といっても、書籍送付用の、ちょっとしっかりした紙、て感じのやつ)。厚紙のせいかよくあるふうの傷よりなんだかやや深く、痛かった。まさかそんな厚紙で切るなんてという意外性がとても悲しく、堪えた。
 今その場で急いでつけた絆創膏をはがしてみると、傷が回復してる感じが薄いので、明日は立派な高い絆創膏を買ってやるー。

 この本はまだ読んでないけど石毛直道はおもしろい。こういう歴史と地理の合わさったような本を読むと、自分がちまちま家のなかでやってる、1回こっきりの、〈残らない〉くせに悩ましい料理というものが、世界という空間の縦や横に広がっているものの一部であるとたしかにわかり、自分だけのものではないように思われて、私にはよいんだぜ。



 スキレットを買った。(軟派!)。ちょうどふたり分かなあというサイズと、ふたり分にはすこし小さいかなというサイズで迷っていたら、「あんまり重たいと、使うのが億劫になってしまってお蔵入りになったりするので、物足りないかなというサイズのほうがいいと思いますよ」とお店の人に言われたので、小さいほうにした。お店の人、心得てるアドバイスだった。やっぱり小さいなあと思う時もあるのだけれど、たとえば卵2個分の卵焼きにはちょうどよいサイズで、熱の籠り具合がテフロンの卵焼きパン(母が余っていたのを送ってくれた)より断然良いので、おいしい卵焼きができて、銅の卵焼き器買おうかしらとときたま悩んでいたのがとりあえずぱっと晴れた気分。
 実家では10代の早いころくらい?に、母親に鉄のフライパンの心得を教わった。鉄は中華鍋だけになって、フライパンに関しては、テフロンは空焚き厳禁だという教えが取って代わった。そしてなかなか頭を切り替えられない祖母が洗ったあと乾かすためにガンガン空焚きしてダメにして母が怒りまくり、はなから話を聞かない父が蓋をしたテフロンフライパンの中で銀杏を煎るので母にとってはまた別の怒りの種であった。何度注意されてもフライパンで煎るので、母がテレビで聞きかじってきた電子レンジで銀杏を煎る方法を父に伝授したのであったが、母がいないときにまたフライパンを使い、またダメにしていた。

 スキレットを使うにあたり、がんがん熱して油を多めにひき、洗剤で洗わず、またがんがん空焚きして乾かし、思い出したときには油を塗布して、しばらくやったことない作業が新鮮でおもしろい。それにつけても、調理しているときはあまり動かさないので気にならないのだけれど、洗うときは片手で持ったり斜めに傾けたりするためか重みがとても堪え、お店の人の正しさをしみじみ噛み締めている。



 ご飯の鍋炊き、おいしいときもあれば、きょうはそうでもないね炊飯器でもいいんじゃないかなという時もあり。しばらく続けてみようと思うけれど、私のいまの無水鍋はでかいので、ちいさめの文化鍋でも買おうかしらと物欲がもたげてきている、あかん。
 小林カツ代が、炊飯は鍋でも炊飯器でもぎりぎりの容量でやったほうがおいしいのよ!と断言していたのが、私の背中を押すのである。
 しかしまた、大橋歩が「アルネ」で土鍋やふつうの鍋や炊飯器で炊き比べしたのち、〈とくにどれが、とか、優越なかったっす〉というような身も蓋もない結論を出していたのも頭にひっかかっているのであった。
 まあ私は自分でやってみるという行為が好きなんだと思う。
 すごくおもしろかった。勉強熱心なところもだけれど、本当に真面目というか、真剣に翻訳に打ち込んでいるんだなあというところに打たれた。


 こいつ適当に訳してるな、と思うときありますよね。

 きょうはほとほと疲れてしまったので、ふらふらと入った本屋で、これを買ってしまった。ふたつくらいエッセイを読んだら、著者がエプロンを自作したというお話がでてきた。エプロンは私みたいな手芸初心者にとっては取りかかりやすいもののひとつではあるかもなあ、と思いつつ、やっぱエプロンつけるのがピンと来ない。週3回働く以外はほぼ主婦なのに、エプロンをつけよう、という気にならない。
 以前結婚した友人の家にお邪魔してイタリアンみたいなフレンチみたいなお手製のお料理をごちそうになった時、友人はエプロンをつけていた。そのエプロンがいかにも、その友人らしく、たとえばクウネルや天然生活や、暮しの手帖の通販ページに出てくるような、リネンをつかった(あるいは一部リネンをつかってる)ような生成り色のエプロンとか、黒いギャルソン風とかではなくて、婦人画報にでてきそうな大ぶりの花がまぶしい柄であったなあ。



 2回ほど、ご飯を無水鍋で炊く練習をした。(2回目はわりとおいしく炊けました)。練習しているとこれまでさんざんお世話になってきた電気炊飯器が疎ましくなってきて、鍋炊きをマスターしたら用なんかないね!おさらばする!と鼻息荒く言っていたら、連れ合いに「でもね、まだ使えるんだからね、使ってあげようね」と釘を刺された。しかし私はいまほんとに鼻息が荒くて、いまの無水鍋より一回りちいさい無水鍋を買って炊飯用にして、おひつも買ってそれで保存して、いや無水鍋じゃないほうがいいのかなあ・・・と妄想しているのであった。
 新しい鍋とかおひつとか、しばらく実現の見込みはないけれど、炊飯器要らないんだなあという発見はこころに刻まれた。電子オーブンレンジはオーブン料理が好きなので手放せないけど、炊飯器はやっぱり、いずれ、卒業したい。

 翻訳ってムズカヒーよね。
それは人間であることと、なんの関係があるのか?

それがないなら知とは何なのかしら。

Low

2016年1月12日 音楽
私こんなにボウイ好きだったんか、と驚くくらい、悲しい。親愛の濃密度でいえば俄かファンに限りなく近いのではないかと思われるくらいなのに。
いつまでも生きるように思っていた。
きょうは国会前でスイミーになります。

...って、「スイミー」は、ツイッターでシールズの女の子が取り上げていて、話題になっていたので数日前にはじめて読んだ、にわかスイミー。
 職場で電話にでたら、苦情を言われた。その苦情は一応ごもっともな内容で、ご不快なおもいをさせてしまいすいませんすいません、と言うしかないものだったけれど、その人の言いようのあまりなやくざぶりに驚いた。クレームの内容上その人の名前や所属を明らかにしなければ話が始まらないものだったのだけれど、そんな〈偉い〉人(けっこうなお歳)がこんなやくざな真似をするなんてこれ私訴えたら勝てるのではないだろうか、そこまでやらないけど、てゆうかビョーキなんだなこの人、と思いつつ、申し訳ございませんでございますと二十回くらい言っているうちにクレーマーは多少落ち着いたらしく、こちらがしかるべき対応をさせていただきますです、ということで終わった。電話を切ると、職場のみなさんがいっせいに憤ったり慰めてくれたりした。私が帰るときにも、対応させてごめんなさいね、と言ってくれたりした。

 その次の日に、電話を受けた日にはいなかった先輩まで私を労ってくれた。先輩は私にすごく同情してくださり、「聞き手が女性だとみなすと途端に強い態度で物申す男性がいるのよね、ほんとうにひどい」と憤ってくれたのだが、そのあとからなんだかじわじわ気分が落ちてきた。というのは、まったくその先輩のせいではない。
 先輩の指摘は私がぼんやり感じていたことと同じで、妙な納得を得られた。私が女だからクレーマーはあのような強い態度に出たらしいと思うと体から力が抜けてゆくような気がした。これは、私みたいなのほほんさんの意識は、毒々しいものをとりあえず遅効性にすることにしているだが、その毒がだんだん効いてきたことにもよる。また帰省で心身が疲れていたせいもある。

 たとえば、このクレーマーが女性であったら、私は〈めちゃ怒りっぽい人〉くらいな感想しかなかったのかも知れず、気分の落ちようも違ったのではないか、と思う。(とはいえそのクレーマーのやくざぶりは、ある意味とても「男性的」であったが)。私が女性で、相手が男性だというだけで、クレーマーが強権的な態度に出たと認識すると、打ちのめされたくらいのダメージを感じることになるんだなあ〜と思った。打ちのめされたとまではいかなくても、嫌悪感や気持ちわるさが倍増する気がする。
 まあそのクレーマーは優しい声の若い男性が電話にでても似たようなことをしたかも知れないし、私が気弱な声で申し訳(以下略)と言っていたせいで気が済んだのかも知れない。

 ともかく職場内にはそういう類いの方はいないし、ガン無視するような方もいないので、よかったっす。
スマホにしたついでにTwitterをはじめて半年以上たって、デモや抗議の情報や、気になる人の発言をすぐに追えるのはいいけれど、情報量の多さに疲れる....情報処理能力があんまりないせいだけれど。そしてネトウヨやあほな保守の意見を目にすることも多くなりやっぱり疲れる......ってそういう輩をフォローしてるわけではなく、フォローしてる人がそういうのを批判してるのを読むからだけど。

90年代やゼロ年代初期に活躍したり感性ができあがったりした人の物言いに勝手にガッカリしたりしてるけど、なんか、平坦な戦場観に毒されすぎてない?って思ったりする。

リバーズエッジには影響を受けたほうだとおもうけど、イマイチ自分の本!になってなかった、いま思えば。
先月からしばしば自分の予定にデモや抗議が組み込まれはじめて、腹筋を鍛えられそうな夏。

今週も議事堂前抗議に2回行った。議事堂前ではスピーチとコールが交互にある。学者や著名人がやって来てスピーチをするのだが、ちょっと退屈なスピーチもあったりする。ちょっと場所が悪いと全体が聞き取れないこともあるので、正直スピーチの間はだるいなあと思ったりするのだけれど、学生のスピーチは懸命に聞くようにしている。おそらくこんな場所に慣れていなかったり、生まれて初めてこんな場所で喋ったりする子たちのことばが、ほんとにどんな学者や著名人のスピーチより、私には傾聴に値してしまう。のは、私が年を取ったせいもあるのかな。

昨日はあまりに体調悪かったので、敢えてひとりで行って後ろのほうでipodで音楽聞いたりして1時間で帰っちゃえー!とへんな決意をして行ったら、友だちに会い、前の方行こうよ!と促されて目論みがあえなく破算した。
友だちは3・11以前からデモや市民運動に参加しているので、「国民なめんな」というコールの「国民」にたいそう違和感があるそうで、「市民をなめるな」と言い替えていた。私も「市民をなめるな」と言い替えてみたけれど、今回は安保法制が違憲であるというのが特に問題でもあるし、憲法に書かれてる「国民」てことばでもいいんじゃないかな、と思ったりした。私は原発事故以降に参加してるので、「市民」ということばに逆になじみがない。脱原発関連のデモや抗議のときはあんまり出てこなかった気もする。
ネトウヨが「国民」ていう時ははっきり排除対象があるので、「国民」ということばにはあまり乗っかりたくないときもあるけど、いま盛んに活動している学生たちは運動の時の「市民」ということばを知らず、日本に住んでる人はみんな「国民」って呼んでいいんじゃないカーくらいな感じで使っているのだと思う。私もそういう意味で「国民」とつかいたい。でもその友だちの日本に住んでいる人の多様な出自を無視していることばだという思いもわすれないでいたい。

そして私は俗物すぎるのか、「市民」というとなぜか「市民税などの税金を納めてる人」「用があって市役所に行く人」みたいな感じがしてしまうのであった。

MTVアンプラグド

2015年6月20日 音楽
これを借りたの今日で2回目なので、もう、買ってしまっていいと思う。ユニオンとかで。

Sons

2015年6月4日 読書
 伯父がなくなったので従姉や妹と帰郷。私は一週間休みをもらってほとんど伯母の家に滞在していた。何かしら役に立たなければ! という気持ちを抱いて動き回り、たいして役に立ってないし機敏に動いたわけでもないのだけれど、疲れた。とはいえ仲のよい母方の親戚なので、たとえば昨年や一昨年自分の父方の家族が亡くなった時よりは、ひとりでやきもきすることもなく過ごした。従姉や妹が子どもの世話のためにそれほど手伝えなくてもまったく気にしていなかった。そしたら私が動き回っているのをみて、大叔母が「鮎ちゃんもね、子どもができたら、そんなに働かなくて済むよ」と言ったのに、なにそれ意味わかんねえ、と思ったけれど、「そうなのー? まー、早く欲しいわあ」と適当に返しておいた。大叔母には、そう言われる前にも、「鮎ちゃんは、つくるつもりあるの?」と訊かれたりして、とっさに「あー.........具体的な行動には、うつしていない......かなあ」とよくわからない答えをしてしまい、その場に居合わせた兄に「下ネタかよ」と指摘された。
 大叔母は私の実家のある同じ市に住んでいたこともあり、小さな頃からよく面倒をみてもらったりして仲がよいのだけれど、この物言いや質問にすんなり反応することができなかったので、いくぶん濃密な愛と親切の空間からはみ出している繊細な自分をあらためて意識してしまった。微妙な感情を抱いても大叔母に対する感謝や親愛の念が揺らいだりしたわけではなかったし、伯母の家でも実家よりはたいへんリラックスして過ごしたのだけれど、東京に帰ってきてしまうと、ほっとした。電車の中などで、そこに居合わせているひとがそれぞれまったく関係なくあるような、濃密さがないことに。なんていうのは、私の願望のような幻想で、みなさんどろどろした濃密さが、家に帰ればあるのだろうが、とりあえず東京は、熱帯のような湿っぽい田舎よりは、空気の感じは砂漠のイメージなので。

 昔読んだSonsを読み返してみたら、読書のアタリを引いたようだ。読みたいと思って読んだ本でも、感動したり感激したり感銘を受けたりした名作でも、その時分に胸の詰まるようなアタリってそうそうないような気がするけれど、アタラれた自分がいやしく恥ずかしく感じるほど、アタった。
 私には愛情や親切というものが、天性で欠けているような、と思ってしまうのは、愛情をあらわさなければ、という義務に押さえつけられているような気が、ときどきしてしまって、とりわけそれはある女性たちにとってはとても重たい生の要請のようなものだけれど、私の場合は恥ずかしいほど軽い気がしている。単なる八方美人の延長のような。

 って、このマンガはそれとは関係なく、すごくいいマンガですだよ。

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