4月10日の日記

2016年4月10日 日常
 妹が北関東へ引っ越して私の東京生活がだいぶ静かになった。週1か2回の頻度で妹の代わりに保育園へ、甥っ子の迎えに行っていたら、ちびっ子たちに顔を覚えられて、あ、ユー!くんの!などと言われたり(私が迎えに行く時はだいたい早い時間に行くので目立ったらしい)、事情をよく知らないお母さんとママと勘違いされたまま会話をしたり、とファニーな日常だったわ。チーちゃんという、いつもボーイッシュな格好をしていた女の子と会えないのがさびしい。

 昨日妹と用事のために会ったら、甥っ子の新しい保育園の近くにあるという「えーさい教育の幼稚園」の話になった。その幼稚園について妹が夫と話していると、ユー!くんもそこに通わせたら頭よくなるのかなあ、と言われたので、「ユー!くんは電車が好きで車掌さんになりそうだから、えーさい教育なんて必要ないとおもう」と返したそう。そしたら夫は「いや車掌さんになっても、出世して管理職になることもあるから、えーさい教育が必要でしょ」と言ったらしい。でも管理職ってエリートがなるんじゃないのとおもったんだけど、どう?と訊かれた。
 別にふつうの車掌さんでもえーさい教育は必要でしょ、というか、そういう幼稚園的なえーさい教育が必要ということもないけど、不要ということもないんじゃない? だいたい教育を受けていないと安全な運転できないとおもうよ。と返して、まあそこのえーさい教育というものがどういうものかわからないけれど、あんまり小さい頃からこうさせようと考えないほうがいいんじゃない?とにかく詰め込みいくない。などと言って、その話はおわった。
 妹と別れたあとももやもや考えていたけれど、私ははき違えたところがあるなと気づいた。それは妹もその夫もそうなんだけれど、教育というものを、将来受験に成功したりいわゆるいい仕事についたり出世したりしてお金を稼ぐためのもの、というふうにとらえて話をしていた気がしたけど、教育ってそもそも「よい生活」「豊かな人生」を送るためとか「よりよい社会」をつくるために学んだり考えたりすることではないのか? と思った。その一部として生活の安定のためにその個人にとってよい仕事に就くための教育ということもあるだろうけれど、そのためだけというわけではないよねと思った。
 wikiをみたら、能力を引き出すということが語源、と書いてあって、うむむむ、となった。
 

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