この本はまだ読んでないけど石毛直道はおもしろい。こういう歴史と地理の合わさったような本を読むと、自分がちまちま家のなかでやってる、1回こっきりの、〈残らない〉くせに悩ましい料理というものが、世界という空間の縦や横に広がっているものの一部であるとたしかにわかり、自分だけのものではないように思われて、私にはよいんだぜ。



 スキレットを買った。(軟派!)。ちょうどふたり分かなあというサイズと、ふたり分にはすこし小さいかなというサイズで迷っていたら、「あんまり重たいと、使うのが億劫になってしまってお蔵入りになったりするので、物足りないかなというサイズのほうがいいと思いますよ」とお店の人に言われたので、小さいほうにした。お店の人、心得てるアドバイスだった。やっぱり小さいなあと思う時もあるのだけれど、たとえば卵2個分の卵焼きにはちょうどよいサイズで、熱の籠り具合がテフロンの卵焼きパン(母が余っていたのを送ってくれた)より断然良いので、おいしい卵焼きができて、銅の卵焼き器買おうかしらとときたま悩んでいたのがとりあえずぱっと晴れた気分。
 実家では10代の早いころくらい?に、母親に鉄のフライパンの心得を教わった。鉄は中華鍋だけになって、フライパンに関しては、テフロンは空焚き厳禁だという教えが取って代わった。そしてなかなか頭を切り替えられない祖母が洗ったあと乾かすためにガンガン空焚きしてダメにして母が怒りまくり、はなから話を聞かない父が蓋をしたテフロンフライパンの中で銀杏を煎るので母にとってはまた別の怒りの種であった。何度注意されてもフライパンで煎るので、母がテレビで聞きかじってきた電子レンジで銀杏を煎る方法を父に伝授したのであったが、母がいないときにまたフライパンを使い、またダメにしていた。

 スキレットを使うにあたり、がんがん熱して油を多めにひき、洗剤で洗わず、またがんがん空焚きして乾かし、思い出したときには油を塗布して、しばらくやったことない作業が新鮮でおもしろい。それにつけても、調理しているときはあまり動かさないので気にならないのだけれど、洗うときは片手で持ったり斜めに傾けたりするためか重みがとても堪え、お店の人の正しさをしみじみ噛み締めている。



 ご飯の鍋炊き、おいしいときもあれば、きょうはそうでもないね炊飯器でもいいんじゃないかなという時もあり。しばらく続けてみようと思うけれど、私のいまの無水鍋はでかいので、ちいさめの文化鍋でも買おうかしらと物欲がもたげてきている、あかん。
 小林カツ代が、炊飯は鍋でも炊飯器でもぎりぎりの容量でやったほうがおいしいのよ!と断言していたのが、私の背中を押すのである。
 しかしまた、大橋歩が「アルネ」で土鍋やふつうの鍋や炊飯器で炊き比べしたのち、〈とくにどれが、とか、優越なかったっす〉というような身も蓋もない結論を出していたのも頭にひっかかっているのであった。
 まあ私は自分でやってみるという行為が好きなんだと思う。

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