とても重いテーマなのに、ページの縁取りの色などをいちいち替えてあったりして、本のつくりが丁寧なのが、とっつきにくさを軽減してくれているような。おしゃれ。おしゃれでも、やっぱり重いテーマなので、やや斜め読み。
実際の犯行に加担した人や目撃した人の証言はもちろんショッキングなのだが、子どもたちの日記/作文にそれが当たり前の風景のように書かれてあって、何の驚きも痛痒も覚えていないようなのが、怖い。いたるところで犯行が起こってから習志野に韓国人を保護する施設ができたようなのだが、その中からも何人かのひとがこっそり連れ出されて殺されていたのではないか、という証言もあって、怖い。
当時の犯行現場が現在どんなふうか、写真がちいさく添えられていて、もちろんその写真だけでは到底、そのような惨劇があったのを伺い知ることはできない。実際そこに行ったとしても手がかりがなければ何も感じることはできないだろう。頭が痛くなるまで、想像してみるしかない。そして犯行現場として、北関東の、妹の家の最寄り駅の名前もあがっていたのには、びっくりした。こないだ休みの日にそこに行ったばかりで、アホみたいにでかい、便利なショッピングモールは醜悪なほど平凡で(ある意味散文的なようで、ゾクゾクとはした)、よくある田舎にちかい郊外の風景だなーと改めて思ったばかりだった。そのあたり東京ほど壊滅的な被害を受けたわけではないらしく、ただ不安と流言が電車にのるなりして伝播していったゆえの顛末で。

私は三流のインテリゲンチャンなので、無粋な非インテリゲンチャンな発言をして失笑されることがある。震災のときに日本であんなに人が死んだのに、私の暮らしが平凡なままでよいのだろうかとおもった、私の故郷もまったく痛手を受けず、よいのだろうかとおもった、と言ったら、失笑されたのであった。そんな日本でたくさん人が死んだからって悲しむのはおかしい、それならば世界の他のどこかでそうなったときにも悲しむべきだよ、と私の意識の狭さを笑われたのであった。私が笑われるのは、正しいことだと思う。乗客に日本人はいませんでした! と海外の事故/事件のニュースの終わりに付け加えるようなことだから。だから私の書くことに覚悟が足りないのだろうと思う。
で、私にそう言った人についても、正しい。彼は常から、世界中の事柄に等しく悲しみや憂慮を覚えているのだろうから。それらのことを自分から遠ざけるために、ほとんど定型のような真実を吐いたのではないだろうから。そうでなければ、私がその言についてたまに思い出して、咀嚼や熟考を重ねる価値もない。

で、やっぱり私は圧倒的に、かっこういいノンポリというよりは、ださいナショナリストとかパトリオティストとかだと思う。カタカナで書いてしまうのはだささを払拭せんとするのではなく、そういうひとってグローバルにいるよねということではなく、日本語ではどう正確に言うかわからないのである。言葉と定義を探さなくてはならないのね。
で、その定義の最初には、ジェノサイドの国の人、と置かねばならない。


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