食べごしらえおままごと (中公文庫)
2013年12月22日 読書
きのうはハンバーグ。合い挽き肉と別に、牛だけの挽き肉も買い、タネをつくる。参考にしたレシピは、ソースを和風にも洋風にもできるよう、その味を邪魔しないために臭み消しのスパイスは入れない、ということでしたが、ケチャップを利用したソースだし、ナツメグを入れた。というか和風でも、ナツメグを入れたい。ナツメグを入れると、おまじないをかけたようで私の気が済むのだった。
おもえば母のつくるハンバーグのタネにも、ナツメグかオールスパイスが振りかけられる一瞬があった。それらのスパイスはハンバーグのときにのみ使用されるもので、母の扱いがずさんなので、口のところで粉末が固まってこびりつき、たぶん賞味期限ぎれになっていたりしたのだろうけど。
ハンバーグはひさしぶりにつくった。私は肉の臭みなどはあまり気にしないので、もしかしたらナツメグなんて全く必要ないのかもしれないが、ナツメグを入れる瞬間がいちばん好きなような気がしている。いまではナツメグの用途については、ぼんやりわかっているのだけれど、振り入れるときに子どもの頃「なんだろこの茶色い粉は」と不思議に思ったのを、もういちど擬似体験しておるような気がするのかもしれない。
と、そんな、おまじないのような、〈道楽〉じみたことをするのは、正しい料理には要らぬことなのでしょう。道楽として行われる料理は、料理ではない、というようなことを、今年どこかで読んで、なるほど、と姿勢を正される気がして、いままでの自分の道楽的料理の数々を反省したくなった。でも、道楽的要素って職業で料理するひとには不要かも知れないけれど、毎日家庭で料理する人ならば多少は必要なのじゃないかしらね、とすこし疑わしくおもったところで読んだ石牟礼道子のエッセイでは、著者がわりとたのしげに道楽を交えながら料理していてよかった。そして水俣が独自の豊かさを持っていたことも知れた。そのいくらかはもう取り戻せないものになってしまったのでしょうか、どうなのだろうか。
そして祖母のつくっていた変わった野菜――ちょっと高級なスーパーにしか置いていないような野菜が、祖母の懐を潤しはしたけれど、祖母の食文化を豊かにすることはなかったことが、なんだかね、とおもう。食べ物を粗末にするな、と言いながら、おいしく料理することには興味のない人だった。
それにつけても、ハンバーグ。食べる直前更に盛りつけたときの様は強烈なものがあったのに、食べ終わってみると余韻のようなものが何もないのにびっくりした。牛肉ってそんなものかな。お腹は十二分に満たされたのだが。
おもえば母のつくるハンバーグのタネにも、ナツメグかオールスパイスが振りかけられる一瞬があった。それらのスパイスはハンバーグのときにのみ使用されるもので、母の扱いがずさんなので、口のところで粉末が固まってこびりつき、たぶん賞味期限ぎれになっていたりしたのだろうけど。
ハンバーグはひさしぶりにつくった。私は肉の臭みなどはあまり気にしないので、もしかしたらナツメグなんて全く必要ないのかもしれないが、ナツメグを入れる瞬間がいちばん好きなような気がしている。いまではナツメグの用途については、ぼんやりわかっているのだけれど、振り入れるときに子どもの頃「なんだろこの茶色い粉は」と不思議に思ったのを、もういちど擬似体験しておるような気がするのかもしれない。
と、そんな、おまじないのような、〈道楽〉じみたことをするのは、正しい料理には要らぬことなのでしょう。道楽として行われる料理は、料理ではない、というようなことを、今年どこかで読んで、なるほど、と姿勢を正される気がして、いままでの自分の道楽的料理の数々を反省したくなった。でも、道楽的要素って職業で料理するひとには不要かも知れないけれど、毎日家庭で料理する人ならば多少は必要なのじゃないかしらね、とすこし疑わしくおもったところで読んだ石牟礼道子のエッセイでは、著者がわりとたのしげに道楽を交えながら料理していてよかった。そして水俣が独自の豊かさを持っていたことも知れた。そのいくらかはもう取り戻せないものになってしまったのでしょうか、どうなのだろうか。
そして祖母のつくっていた変わった野菜――ちょっと高級なスーパーにしか置いていないような野菜が、祖母の懐を潤しはしたけれど、祖母の食文化を豊かにすることはなかったことが、なんだかね、とおもう。食べ物を粗末にするな、と言いながら、おいしく料理することには興味のない人だった。
それにつけても、ハンバーグ。食べる直前更に盛りつけたときの様は強烈なものがあったのに、食べ終わってみると余韻のようなものが何もないのにびっくりした。牛肉ってそんなものかな。お腹は十二分に満たされたのだが。
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