先日上京していた叔母たちと、叔母たちの逗留先である娘=従姉の夫婦に、エネさんといっしょに会いに行った。エネさんと叔母たちは初対面であったのに、従姉夫婦の子どもが好き嫌いが多いものだから、回転寿司屋で会食だった。初対面で回転寿司、しかも回らないところのテーブルで、注文しなきゃ出てこない、ハードル高すぎます。
お料理が上手で、とエネさんが私についてお世辞を言ってくれたのだが、叔母がすかさず「この子へんなものつくるでしょ! いつだったかね、水菜に酢をかけて食べてたの! 酢!」と言っていた。水菜に酢のみをかけることの是非はともかく、私は叔母に手料理を振る舞ったことはあまりないので、へんなものをつくるというイメージはどこからきたのか、というか、彼女だけでなく、母も妹も、なんで私の料理がへんなものだというイメージがあるのだろうか。と憤ったけれど、たぶんほんとうにへんなんだとおもいます。エネさんかわいそう。
暮しの手帖社からでている「吉兆味ばなし」を読んでいる。と、わりに〈ちょっとここで味の素をくわえますと味がきまってよいでしょう〉みたいな記述が散見される。味の素なんてゲー! とおもうことはせず、あえてスルーして読むことにしているが、やっぱり多用にはおどろく。筆者の湯木貞一によれば、料理屋で化学調味料をとりいれたのは吉兆がはしりだそう。あんまり使いすぎるのもよくない、と苦言を呈してはいるし、なにより昔のひとだしと大目にみつつ、やっぱり自分の料理のなかで化学調味料ってどういう位置づけをしたらよいのかは考えたほうがよい気がする。とはいえ、料理屋だけれどもアドバイスは家庭の味ややり方に配慮しつつ、季節に沿って提示される料理は読んでいておいしそうで、小話も興味深いのでおもしろく読んでいます。箸はかわいていてはいけないので、あえて湿らせる、というのがすごいなあとおもった。(たぶん昔ながらの漆の箸かなにか)
と、エネさんが古本屋で「辻留・料理のコツ」や、沢村貞子の「わたしの献立日記」なども買ってきてくれたので、浮気しつつ読む。ただ、三つともおもしろく読みながらおもうことは、これらはあまり真似できそうにないなあということ。料理はわりと好きだけれどきほん注意力散漫なので、というのもあるけれど、農業や農作物にまつわる事柄や料理や生活がいろんな事象を取り込みながらあらゆる面でどんどん複雑になっていくなかでの、幸福な部分というか幸福な時代の残滓という気がしてしまうのであった。
辻留の本では、なんにでも砂糖をいれてしまうのはあまり感心いたしませんなあ、戦後の味覚の混乱に乗じて培われた悪しき風習、と書いてあり、(砂糖を全否定するのではなくて必要に応じて使えということ)、それは卵焼きをはじめ私の母方の料理にそのままあてはまることであった。砂糖にトラウマがあるのかというくらいなんでも甘かったような気がしてくる。いまはあまり真似しないけれど、食べていたときはおいしく食べていた。
いまは化学調味料のはいったものはなるべく避けよう、というのは健康や本物志向よりも、そんなんで味がきまってしまうのは癪だという理由から、ミツカン的なぽん酢にも手がのびず、濃縮還元でないゆず果汁を買い求め(高い)、醤油と混ぜている。味ぽんよりやっぱりおいしいのだけれど、自分の経済状況にはまったく見合っていない。
へんなものは食べたくない! とおもいながらへんな料理をつくり、たまに食材をあまらせたりして棄ててしまうのがいちばんよくない。気候が不安定なせいか、人参がすぐにダメになってしまったのにはびっくりしたが。
お料理が上手で、とエネさんが私についてお世辞を言ってくれたのだが、叔母がすかさず「この子へんなものつくるでしょ! いつだったかね、水菜に酢をかけて食べてたの! 酢!」と言っていた。水菜に酢のみをかけることの是非はともかく、私は叔母に手料理を振る舞ったことはあまりないので、へんなものをつくるというイメージはどこからきたのか、というか、彼女だけでなく、母も妹も、なんで私の料理がへんなものだというイメージがあるのだろうか。と憤ったけれど、たぶんほんとうにへんなんだとおもいます。エネさんかわいそう。
暮しの手帖社からでている「吉兆味ばなし」を読んでいる。と、わりに〈ちょっとここで味の素をくわえますと味がきまってよいでしょう〉みたいな記述が散見される。味の素なんてゲー! とおもうことはせず、あえてスルーして読むことにしているが、やっぱり多用にはおどろく。筆者の湯木貞一によれば、料理屋で化学調味料をとりいれたのは吉兆がはしりだそう。あんまり使いすぎるのもよくない、と苦言を呈してはいるし、なにより昔のひとだしと大目にみつつ、やっぱり自分の料理のなかで化学調味料ってどういう位置づけをしたらよいのかは考えたほうがよい気がする。とはいえ、料理屋だけれどもアドバイスは家庭の味ややり方に配慮しつつ、季節に沿って提示される料理は読んでいておいしそうで、小話も興味深いのでおもしろく読んでいます。箸はかわいていてはいけないので、あえて湿らせる、というのがすごいなあとおもった。(たぶん昔ながらの漆の箸かなにか)
と、エネさんが古本屋で「辻留・料理のコツ」や、沢村貞子の「わたしの献立日記」なども買ってきてくれたので、浮気しつつ読む。ただ、三つともおもしろく読みながらおもうことは、これらはあまり真似できそうにないなあということ。料理はわりと好きだけれどきほん注意力散漫なので、というのもあるけれど、農業や農作物にまつわる事柄や料理や生活がいろんな事象を取り込みながらあらゆる面でどんどん複雑になっていくなかでの、幸福な部分というか幸福な時代の残滓という気がしてしまうのであった。
辻留の本では、なんにでも砂糖をいれてしまうのはあまり感心いたしませんなあ、戦後の味覚の混乱に乗じて培われた悪しき風習、と書いてあり、(砂糖を全否定するのではなくて必要に応じて使えということ)、それは卵焼きをはじめ私の母方の料理にそのままあてはまることであった。砂糖にトラウマがあるのかというくらいなんでも甘かったような気がしてくる。いまはあまり真似しないけれど、食べていたときはおいしく食べていた。
いまは化学調味料のはいったものはなるべく避けよう、というのは健康や本物志向よりも、そんなんで味がきまってしまうのは癪だという理由から、ミツカン的なぽん酢にも手がのびず、濃縮還元でないゆず果汁を買い求め(高い)、醤油と混ぜている。味ぽんよりやっぱりおいしいのだけれど、自分の経済状況にはまったく見合っていない。
へんなものは食べたくない! とおもいながらへんな料理をつくり、たまに食材をあまらせたりして棄ててしまうのがいちばんよくない。気候が不安定なせいか、人参がすぐにダメになってしまったのにはびっくりしたが。
コメント
お母様やご実家での食事に関する話、興味深く読ませていただきました。うちの母はJPBさんのお母様のような意識の高い女性ではないですが、ある時期からはそんなに味の素をみかけなくなったような気も・・・しかし味の素的な化調のはいっているであろう「ほんだし」「白だし」は多用していて、健康に悪いのもそうですけど、へんな味がするのでやめてほしいと思います。
肉・魚まで遠ざけられるのはかなりきついですね。
私は実家での食生活というより、幕内秀夫の一連の「粗食」本を読んで(購入はせずに、立ち読みで!)、このひとびみょうだなと思いながらも影響はしっかり受けてしまって、化調の入っているものや精製された砂糖を買わないようになりました。私は体型にコンプレックスがあったり、とくに二十二歳前後は食生活が荒れていたので(プチ摂食障害みたいな感じでした)、そういうのに興味を持ちやすかったんだとおもいます。
輸入レモンは怖くて買えないですね・・・といいつつ、輸入キウイはたまに買ったりしているんですけど、あれもビミョーなのかな。