車道をあるこう私はげんきー
2013年9月25日コメント (2) 東京大行進に参加した。新宿近辺を歩いたのだけれど、大久保を通れてよかったです。大久保にいた人が店から出てきて列をみていたり、手を振ったりしてくれた。わたくしは自分が差別をしないひとだとはおもえないので、これをわたくしの正しさのために歩くことはできない、けれど、「あなたたちにひどいことを言っている人たちは間違っていると、わたくしは知っています」と表明することができたのはよかった。新宿にいたひとたちはわりとポカーンとした反応でしたが。カウンターで嫌がらせをするひともなく、無事に終わってよかったけれど、ただ、ミニスカートのパンクっぽい?ファッションの女の子が、「とりあえず連帯しようは差別の温床」「内部批判、自己批判しない反差別は、ただの消費」と掲げたプラカードを行進する私たちに向かって掲げていたのが気になった。たった独りで。(文言は、うろ覚えだったのを、ネットで検索して確かめたものです。その女の子のまわりには、その女の子にたいするカウンターが起きないようにという配慮なのか、警官がぶあつく配備されていた)。わたくしたちが偽善であると咎めたかったのだろうか。
大行進にたいする、星野智幸のぼんやりした賛同文とかには?ってなったけれど、車道を歩いてみなければ頭が回らない、心が動かないことも、あるのねん。
そういえば最近、偽善っていうことばって、わたくしの中学高校時代の世間における流行語だったのか、それともわたくしの中学高校時代の心のなかの流行語だったのか、考えこんだ、そしてどっちか結局わからないままである。
大行進にたいする、星野智幸のぼんやりした賛同文とかには?ってなったけれど、車道を歩いてみなければ頭が回らない、心が動かないことも、あるのねん。
そういえば最近、偽善っていうことばって、わたくしの中学高校時代の世間における流行語だったのか、それともわたくしの中学高校時代の心のなかの流行語だったのか、考えこんだ、そしてどっちか結局わからないままである。
コメント
特有の世代における流行語と思っていました。今は、敢えて青臭く議論を混乱させてやろうっていう意地悪な気待ちのときに使ってます。
お久しぶりです。
いまは自分のしていることは偽善であるかどうか、という内省があまりないような気がしていて、いいものかどうか、とおもいつつ、中学生のときの偽善かそうでないかの煩悶ってときどきはまったくの無駄であったような気もして、20代になると似たような煩悶であっても偽善というタームがでてこなかった気もします。私はただのおめでたいひとになってしまったようです、うむむー。